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映画「鶴になる」 – 大阪・南地で芸妓をめざす女性の一年を追う

2023年11月27日、大阪のミナミの花街、南地に1軒残るお茶屋「たに川」で御披露目になった芸妓 千鶴さんの、見習い期間を追いかけたドキュメンタリー映画の制作がすすんでいる。

千鶴さんはすでに見習いのときから贔屓客やファンを多く集め、南地の期待の新星として注目を寄せている人気ぶりだ。

映画は国内、海外映画祭に出品を予定し、2024年2月からのクラウドファンディングで上映をめざす。
ご関心あられる方みなさんのご協力と上映されるあかつきのご鑑賞を是非お願いします。

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映画「鶴になる」
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芸妓さんになりたい。

そう思った1ヶ月後、高校を辞め、京都へ。しかしすぐに世間はパンデミックに見舞われ、自身の体調も悪化。
夢を断念し、地元大阪で就職した。そんな彼女が再度、芸妓を目指すため「たに川」の門を叩く。
見習いから芸妓になるまでの知らせざる道のりを描いた。

監督:島田拓空也
出演:千鶴玉幸いち鶴まり鶴谷川恵花柳旭扇

公式Instagram:@tsuruninaru_0220


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悲願のTHE GREAT KANSAI DERBY (関西対決 – 阪神vsオリックス)

阪神タイガースとオリックス・バファローズの関西のチームどうしの日本シリーズが実現した。
前回が1964年の阪神×南海で59年ぶりになる。

「関西シリーズ」とか「関西ダービー」とか「阪神なんば線シリーズ」とかいろんな名称で呼ばれる2023年の日本シリーズ。

阪神とオリックスでは「THE GREAT KANSAI DERBY」とすることに決めたようだ。

大阪環状線の、京セラドームの真反対になる界隈で過ごした子どもの頃は、パ・リーグに”在阪3球団”の南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズがあって、家から日生球場も大阪球場も近かったから、僕ら男児みんなの頭には阪神を含めたいずれかのチームの帽子があった。

前期後期にわけたリーグ戦でそれぞれ優勝を重ねていて、そのたびに系列の百貨店がセールをするので定例の祭のようになっていた。

セ・リーグとパ・リーグの垣根を越えて開催される春のオープン戦は僕らには公式戦より楽しかったかも知れない。
阪神ファンの僕には甲子園球場の公式戦では見ることのできないビジターユニフォームや三塁側での応援が楽しかった。

そして僕らの夢は阪神と在阪3球団それぞれとの日本シリーズ対決だった。

南海がパ・リーグで優勝を重ねていた頃は、讀賣巨人がV9時代で阪神はセ・リーグを勝ち抜けなかった。
阪急、近鉄の黄金時代は、セ・リーグは赤ヘルカープの黄金時代でまた阪神は勝ち抜けなかった。
阪神が1985年に優勝したときはパ・リーグは西武の黄金時代で、2003年と2014年はもう関西のチームではないホークスだった。

「在阪3球団」。

阪神ファンが道頓堀や大阪で騒ぐのを見て、兵庫県の球団なのにおかしいと憤慨される最近の若い世代の方々には理解し難いかもしれないが、本拠地球場は兵庫県にあっても、かつては阪神も阪急も球団本社が親会社の膝もとの大阪市内にあったので、「在阪」、本拠地は大阪と見なされるのが普通だった。
球場は大阪に本社のある鉄道会社の「沿線施設」で、みんなホームが大阪か兵庫かなどと考えることすらなかった。
「営業圏」という感覚が正しかったかもしれない。
だから個人的には「関西」と括るのも大きすぎる感じがしてちょっと違和感もある。

それは関西に限ったことではなく、球団が集中した首都圏でも同様で、本拠地を都道府県で強く意識するようになったのは、1994年に「ホーム」を強く意識した運営をするJリーグがスタートしてからである。

大阪市の東寄りに住む僕らは町工場か魚屋、八百屋、果物屋、菓子屋の子どもで、町工場といっても自宅の1階が仕事場で2階で生活していて、店をする家庭もそうだった。

バブル景気を迎えた頃には大手メーカーは下請け工場を海外に求め、町には大型のスーパーが出店が相次ぎ、僕らの家の商いは危うくなっていて、僕らは親から将来は家業は継がずに会社勤めするように口酸っぱく言われて育つ。

家業を継がないのなら実家にいる必要はないから就職し家庭をもつ頃にはみんなこの街からいなくなった。
工場だった家はなくなってマンションや住宅に変わり、商店街はシャッター通りになった。
奇しくも同じ頃、1988年に南海ホークスは買収され福岡に移転し、阪急ブレーブスはオリックスに買収され、その後神戸でオリックス・ブルーウェーブ になり、2004年に大阪近鉄バファローズを吸収合併、東北楽天ゴールデンイーグルスと分裂して、いまのオリックスバファローズになる。

もう会うこともない、街から出ていった”在阪3球団”のファンだった友だちはみんなそれぞれ、互いに夢見ていた”関西対決”の今年の日本シリーズをいったいいま何処でどんな思いで見ているだろう。

50年待った、とうとうかなった、本当に嬉しい。
阪神ファンなので、タイガースに是が非でも勝ってほしいけれど、いま格別に愉しい時間である。

できることなら、あの頃の小中の同級生たちと語り合って、それぞれを応援したいのだけれど。


追記。
記念乗車券買ってきた。
世が世なら阪神と阪急と近鉄3社がいっしょの記念乗車券。
なんかちょっとおもしろい。

(2023.11.01 改訂)

【祇園祭】姫路から京都へ。”祇園神”の神輿行幸をたどる 2023

京都の八坂神社は播磨・姫路にある廣峯神社の分祀だという説がある。
真偽は定かではない。
というのもこの説は鎌倉時代に現れた吉田神道が流布する以前には見られないからだそうだ。

この説に呼応するように、神戸、大阪、京都には貞観11年(869年)、御分霊の神輿が京都に送られる道程の停泊を創祀とする祇園神社、八坂神社が点在している。

貞観11年というと勘のよい方は祇園祭の始まりとされる「御霊会」が行われた年であることに気づく方もおられるだろう。
おそらく廣峯からの京都に神様が迎えられたことと一連の出来事であったと考えるのが妥当に思える。

文献やネットには学者や一般人の歴史家による考察がいくつかあるが
実際に写真などを伴って現地を紹介しているものが皆目無いので、これに関心をもってしまった私が、現地におもむいて、令和5年(2023年)の現在を確かめることにした。

訪問の順番は道程の順ではないので断っておく。

廣峯神社
(2023/5/2 訪問)

JR播但線 野里からタクシーで15分ほど。
徒歩で登れば1時間はかかる、なかなか険しい山の上にある。

この山は白幣(はくへい)山と呼ばれ、いまから2000年以上前から山上に「スサノオ」と「イソタケル」が祀られ、古代、神功皇后が朝鮮半島に「三韓征伐」に出兵する際に戦勝祈願を行い、勝利して凱旋するときも戦勝報告と感謝の大祭をされたという。

この話はまさに祇園祭の前祭の「船鉾」、後祭の「大船鉾」、(他にも占出山があるが)を想起させ、縁を感ぜざるを得ない。
廣峯におけるスサノオと神功皇后の関係を知っているからこそ祇園祭に反映させたのではないかと思わせる。

現在の鎮座地については、奈良時代に遣唐使の吉備真備が日本に戻る途で淡路島近辺で神託(おつげ)をうけて、その報告をうけた聖武天皇の勅命で、社殿が設けられたということだそうである。

現在の社殿は室町から江戸につくられらもので、武家の時代のものによくみられる、木肌がそのままの荒い雰囲気がある。


黒田氏が神社に奉仕する「社家」のひとつであったことで、近年、NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」の頃に当地に関心が集まった縁で、令和になって「官兵衛神社」のような真新しい社殿も建立されている。

社殿の裏奥、「白弊山」の奥宮には本来の御神体である磐座(いわくら)がある。
神功皇后が祈願なさったのならこの場所であろう。

 

ここまで詳しくは書いてこなかったが、ここから京都に御分霊がはこばれた神は「牛頭天王(ごずてんおう)」で「スサノオ」と同一とみなされている。牛頭天王自体はよくわからない神様で、「祇園」の由来になっている祇樹給孤独園、日本では通称「祇園精舎」という古代仏教の布教施設に祀られていた守護神と言われているが、インドにも中国にも牛頭天王にまつわる話自体無いそうで、むしろ韓国にいくつか牛頭山と称される山や島があり、それぞれ地のその山や島自体への信仰と何か関係があるようだ。
「スサノオ」は日本書紀に「新羅(古代朝鮮半島にあった地域、国)の”ソシモリ”」に降臨したとあり、ソシモリはハングルで漢字をあてると「牛頭」または「牛首」となるらしい。

古事記や日本書紀という”大王家(皇室)肯定”の国史編纂にあたって、渡来人の知恵を借り、近隣諸国の歴史や伝説を参考にしたことやその後の神仏習合でごちゃごちゃにこの国の信仰対象として正当化されたものだろう。廣峯神社が山の上にあるのも朝鮮半島伝来で、牛頭天王は山の神で、山の上に祀られる必要があるからだろう。
貞観11年(旧暦)3月朔日(1日)、清和天皇により播磨国廣峯より牛頭天王を勧請する勅命が発せられる。

 

神戸平野 祇園神社
(2023/2/4 訪問)

JR神戸駅、神戸市営地下鉄大倉山駅近くから、有馬街道の山坂を北上すること2km。

境内からは神戸の港や市街を一望できるような山の中腹にある。鳥居をくぐって境内までの石段は結構長くて険しく、下りも手すりをもったほうがいいかもしれない。


姫路廣峯を出発した神輿の一行が廣峯神社と縁者であった徳城というお坊さんの導きで一泊した場所が地元の民の信仰を集め、当地が神社になったという。

神社の麓には「祇園町」という地名がいまも住所として残っているし、六差路の「六道の辻(りくどうのつじ)」があるのも京都の八坂神社、東山周辺を思わせるようだ。

平野は平清盛「福原京」をおいた地で、京都の平野神社の「平野」にあやかっているのだろうか?(不明)

姫路から神戸への道程、神輿は浜の方へは下りず、山伝いの道を有馬経由で来たのだろうか。
浜のほうへ出で東進してきたとしても、山の神なので山の方へ導く必要はあったのだろう。
あるいはこの地に疫病が蔓延していたなどの事情があり、神威をもってこれを払わんと立ち寄ったか。

 

難波八阪神社
(2023/2/12 訪問)

ネットなどで見受けられる文献や記事では、難波八阪神社も神輿の道程にあると書かれているが、神社界隈の人が語っているとだけあり、由緒書に記載もなく、”公式”といえるものが見当たらない。

調べたところ神戸平野から、大阪に至るまで、スサノオ神社はあるものの貞観11年の創祀をうたっている廣峯、祇園、八坂、スサノオ神社は見つけられなかった。

仮に難波八阪神社が神輿の道程にあったとすれば、陸路で神戸方面から来たとすれば京都へ向かうのにここに立ち寄ることはかなりの寄り道になる。
可能性としては、神戸阪神間で海路を使ったか、この界隈に疫病が蔓延していて神威をもってこれを払わんと立ち寄ったか。

廣峯から京都へ神輿が運ばれる以前から、廣峯神社、牛頭天王は疫病退散を願うひとの信仰を集めていたようで、神輿の行幸の前の時代にも各所に廣峯神社の分祀が存在しているし、以後の時代も八坂や祇園、スサノオなどの名前で神社が建立されている。

寝屋川の八坂神社は、神輿の行幸以前、飛鳥時代、大化の改新直前の643年に地元の水源で田畑も潤していた池が汚染し、それが原因の不衛生から病気が蔓延したが、地元の民が播磨・姫路の廣峯神社に足を運んで祈願したのち、状況が好転回復し、
その神徳への感謝を忘れないために池のほとりに御分霊を祀ったその場所が当地ということだそうである。
(2023/5/4 訪問)

 

 

高槻 原 八坂神社
(2023/4/2 訪問)

JR高槻駅北口から市営バスで15分、山の方へ北上して「神峰山口」で下車、10分。
「神峯山」というのは奈良から長岡京、平安京への遷都を行った桓武天皇の実父、光仁天皇の勅願で建立された神峯山寺があるからだということだろうが、神峯山寺のほうが神輿の行幸より70年以上前とはいえ、廣峯と神峯の語呂に近いのが個人的に気になる。

ここ3年コロナ禍で中止になっているが、毎年4月最初の日曜日に「春祭歩射神事」通称「大蛇祭」というものが行われる。
村の人たちがワラで作った大きな綱を大蛇に見立てて、それをかついで村内を練り歩き、最後は境内の的場に運び入れ、矢で射掛けるというもので、明治以前は境内を横切る川を挟んで引きちぎれるまで綱引きをしたとのこと。

神社の言い伝えでは地元に大蛇が現れ襲ったのを神社に祈願して退治できたという話であるが、スサノオのヤマタノオロチ退治に似ているし、村に疫病が蔓延したことを意味するのかもしれない。

いずれにしても高槻の市街地よりは山の手で、神戸平野と同様に山に祀る必要で当地になったのかもしれない。
大阪難波方面に向かわず六甲から北摂の山伝いに京都に向かっていた可能性は全くないとは思えないが、常識的に考え難い気がする。


元祇園梛神社
(2023/1/22 訪問)

神輿の行幸は平安京に到着し、四条大路をすすんで現在の坊城通と交わる「四条坊城」付近にあった梛(なぎ)の大きな林に住む源氏の一族の誰かがをお迎えする。
源氏とは皇族から姓を与えられ臣下に下った(臣籍降下)家柄に与えられた、皇室と親戚の姓のひとつであって、直接的に源頼朝に繋がっていく家の祖先であったかはこれだけではわからない。要するに元皇族が神輿を出迎えたということだ。

その梛(なぎ)の森で朱雀大路に一番近い林に祠を建て神輿から御霊をお祀りしたそうで、その場所が現在の境内地にあたる。
その後八坂の郷に向かって神輿が向かうとき、住民が花で飾った風流傘(ふりゅうがさ)を立てて、棒を振って見送ったのがいまの祇園祭の始まりだと由緒書にはある。
風流傘や棒振りは現在の祇園祭の綾傘鉾や四条傘鉾とその町衆の舞踊のイメージが近いのではないかと思われる。

ここまで書いてこなかったが、清和天皇の勅命によって京に行幸してきた神輿は八坂の地を目指していたわけではない。

牛頭天王は平安京ができたときから東の方角を護る東天王として東光寺というお寺に祀られていたのが焼失していて、清和天皇は牛頭天王が居られないから、この国に災いが多いのだと考えられて、新たに廣峯からお迎えすることを決められたのではないかと思う。

貞観11年、旧暦6月7日、清和天皇の勅命で御池通りの由来になっている通称「御池」の神泉苑で、当時の日本に在る”クニ”の数の66の鉾刀を立てて、”祇園神”の神輿を迎えて、「御霊会」を行われる。これが現在の「祇園祭」の発祥と語り継がれていることであるが、

この”祇園神”の神輿が八坂から来たという証拠があるわけでもなく、ここまでの行幸を見てくると、梛神社を出発した神輿の行幸がまっすぐ東に四条大路を突き進んで八坂の郷に向かったのではなく、坊城通りを北に向かって神泉苑に向かったと考えるのが妥当のように思われる。

神輿は八坂の郷に向かう目的ではなかったわけだし、平安京は(新)京極通までであって、その先は京とは違う場所であって当時が今のように四条大路が八坂神社に向かう参道でもなければメインストリートだったわけでもない。鴨川に四条大橋も架かってはいなかった。

京都に少し詳しいひとなら「東天王」と言われると気づかれるのではないかと思うが、今年うさぎ年で、正月が過ぎても今なお参拝客が絶えない、岡崎神社の別称だ。

 

東天王 岡崎神社
(2022/12/31 訪問)


岡崎神社は「北白川」の「瓜生山」にあった東光寺の境内にあった神社(境内社、鎮守社)であった。
神泉苑での御霊会のあと、この地に牛頭天王を京の東の守護として祀った。

瓜生山といえば、京都芸術大学(旧 京都造形芸術大学)のある場所だ。
祇園祭の頃、京都の人は、祇園の神紋がきゅうりの断面に似ているのできゅうりを食べないというが、牛頭天王自身はきゅうりを好んだとも言われ、瓜生山は胡瓜(きゅうり)好きの牛頭天王のおられる山という意味なのだそうだ。

東光寺自体は岡崎神社の向かい側の御旅所のところにあったようであるが今は失われて無い。
京都芸術大学のある瓜生山にも廣峯から行幸した牛頭天王が一時まつられ、八坂に遷されたという説があるのだが、この場所は岡崎からはかなり離れていて東光寺との関係がよくわからない。

ただ私たちは現在「北白川」と認識している場所が京都芸術大学の場所あたりと思っているが、歴史的にかつては岡崎付近も「北白川」であり、現在のような開けた場所のイメージではなく東山に連なる丘になった森のような場所であり、そもそも瓜生山自体、現在の場所を指していたかどうかも定かではなく、現在地を含めて南側の丘陵地の可能性があるようで、瓜生山すなわち岡崎であったということは否定できないように思う。

後年、東光寺は火災に遭うなどがあり、元慶年間(877-885)に八坂の郷に「祇園感神院」としてあらたに祀られ、現在の八坂神社に至る。

私は京都の芸舞妓に関心があるのだが、近年、歌舞練場が工事していた期間、瓜生山の京都芸術大学にある春秋座で八坂の祇園さんの氏子になる祇園甲部や宮川町の芸舞妓らがそれぞれ「都をどり」「京おどり」の公演をおこなっているが、この話となにか縁があるようでひとり悦に入っている。

今年はみんなとくに岡崎神社のうさぎの像に夢中になっているが、岡崎神社の御祭神をちゃんとご存知だろうか。
それで結構至近距離にある八坂神社と同じ祭神であることになにか疑問を感じた方はおられるだろうか。
ただ、現在の岡崎神社の由緒書には廣峯神社とも八坂神社とも双方の関係には一切触れていない。

 

西天王 須賀神社
(2023/5/4 訪問)

境内にある由緒の高札には記載がないのだが、社務所でいただいた由緒書には、貞観11年に廣峯神社からの分祀を創祀とする内容がある。

 


須賀神社の「西天王」は岡崎神社が岡崎の地に再建されて以来の位置関係で西側という意味のようだ。かつては平安神宮の位置にあったようで、京の西を守護する意味ではないようだ。
京に到着した御分霊を東天王として祀られるものとさらに分けられたかのように読み取れるが、何のために分けられたか、何のために平安神宮のあった場所に祀られたかはよくわからない。

あらためて、冒頭にも書いたが、京都の八坂神社は播磨・姫路にある廣峯神社の分祀だというのは定かではない。

八坂神社はその創祀は656年に朝鮮・高句麗から渡来した伊利之使主(いりしおみ)が新羅の牛頭山に祀られていたスサノオを当地に祀った説と、貞観18年に奈良にいた円如というお坊さんが当地に堂を建てた年に「天神(祇園神)」が降臨したという説のどちらかであるとしている。

ただ私が思うに、
伊利之が牛頭天王を祀っても、それはこの国のためではなく、あくまで八坂の郷に生きる秦氏の一族「八坂造(八坂氏)」のためだけの信仰対象であったに過ぎないという可能性はないだろうか。
神様が降臨する場所はひとには決められないが、平安京にとって八坂の地に祀られる、方位学的なものであったり道義的な理由がない。
あるいは貞観11年の時点で、八坂造が信仰していた牛頭天王もまた焼失などしていた可能性もあったのでは。
それならば、天皇は京やこの国のためには独自で牛頭天王を迎える必要があると考えるのももっともではないかと。

もっとも吉田神道が唱える説も創作、各神社の由緒も創作かも知れず、日本の神様自体ファンタジーだとそう言ってしまえばもう元も子もないけれど。

(2022/5/28 加筆訂正)

菱餅と三色団子の謎

近年、ひなまつりの時期に近所のスーパーに行くとパックに入った菱餅(ひしもち)を見かけるようになった。菱形に厚くカットされた三色のテイをしている。

はて?僕の子どもの頃からの記憶では菱形の薄い板状のものが重ねられ、上にいくほど小さくなる、ピラミッドのようなイメージではなかったか。

確かに「ひしもち」という名前だったが雛飾りのオモチャで、食品としての実物は見たこともなかった。しかも三色ではなかった。3枚以上は積まれた姿をしていた。

これはあらためて調べねばなるまい。

ところでそのスーパーで売られていたものも含めて和菓子として見かけるものはみんな同じテイの三色で、どこのホームページでも三色のいわれが書かれていて、なぜか店ごとに説明に差異があり、三色でないといけないかのように書かれている。三色団子のいわれと大差はない。

三色団子って、秀吉の「醍醐の花見」からとかそういう話も見かけたけれど、僕の記憶では昭和になり、京都の太秦の映画撮影所で撮る時代劇もモノクロからカラーになって、あるときよくある街道沿いの茶店のシーンで旅の者に出される団子が見映えが悪いので、監督が撮影所に菓子をおさめてる店に華やかにしてくれと注文をつけて、お店がよく使う紅白とヨモギで三色にしたという話だったように思う。そういう映像が出まわって三色は定着したのだと。

これが絶対真実と言い切る自信もないけど、一番もっともらしくて、いまいろんな和菓子屋さんたちがのたまう、そんな高尚ないわれとかそもそも無いと思うんだよね。

だんだん年が経ってものごとの本当のことやいわれを知っている人がいなくなる。だからこそ歴史を創作して子どもにおしえないでほしいものだ。

京都がそんなにええもんか(DEEP)

芸妓、舞妓や花街文化に興味があるので、先頃のツイッターの告発は気になっている。
瞬く間に大きな世論になったが、たいていの人はそもそも花街や芸妓舞妓に普段から関心があったわけではないから基本的な知識が欠如しているので、あらぬ想像を膨らませたり、ネットで文献を見つけてくるのはよいが解釈に極めて偏見が目立ち、花街や舞妓の印象を悪くしてしまった。
告発の内容を議論する以前に、基本的知識が誤認されているのに告発者はこれをまったく是正しようともしないのはとても問題がある。

これを機に京都と花街の歴史に向き合い、伝統に対する考え方をあらためることが必要と考える。
告発されたような問題が、なぜ京都で解決がなかなか進まないのか、少し事情が見えるかもしれない。

京都。

世の中には京都好きな人が多くて、そういう人たちが思い描く京都は、見目麗しい古都京都で、関西在住の人の目に映る京都とはかなり違っていることは以前にも書いた

東海道新幹線の開通により、遠くまで旅行することがたやすくなったことで、JRの前身の国鉄や各自治体が地域のPRに熱心に推し進めた。

とくに京都は女性ファッション誌がこぞって京都を特集したり、デュークエイセス、ザ・ベンチャーズ、渚ゆう子、チェリッシュ、小柳ルミ子、京都を題材とした歌謡曲がたくさんリリースされ、そして何よりカラーテレビの出現と普及で、お茶の間で見る京都の景観が多くの人を魅了したことが大きいのではないかと思う。

そして1970年代に京都を観光で訪れる男女比が逆転する。
こうして見目麗しい古都京都のイメージが出来上がったわけで、意外と最近のことである。

それ以前の京都といえば、主に「男性向けの観光地」で、昼は知的好奇心を満たす神社仏閣を巡り、なによりも夜を愉しむ場所だった。
東海道新幹線が開通して、大阪方面のビジネス出張があれば京都で降りて歓楽街に寄って帰る男性も少なくなかったようだ。

それは京都に限ったことではなく旅行自体も男性主体で温泉地にも芸者に始まって歓楽街が隣接するところは少なくない。

そんな時代を当時の「サラリーマン」だった男性ならみんなご存知のはずだけれど、ご健在でも90歳を超える世代だから、時とともに失われていくイメージなのだろう。

平成生まれとなると信じられないかもしれないが、昭和のアラフィフ以上の世代なら、20歳になったり、社会人になった記念に「筆おろし」などといって、男子が歓楽街で童貞を捨てるような儀式のようなことがあって、僕も儀式の対象にはならなかったが、友だちの機会のカンパに参加させられたことはある。

歓楽街で男性が遊ぶことは、女性とっては彼氏や旦那がそうであれば浮気心でしかないし、浪費であり、理解しがたいことだ。
女性の社会的地位が上がって、男性側の趣向にも変化があって、近年はおもてだって話題にすらならなくなったが、今も少なくはなったが無くなったわけではないし、昭和の頃はそういう街の数も規模も大きければ、当たり前に存在していた。

あえて言うなら、今より性に寛容な時代だった。

その「歓楽街」に京都の花街も当然含まれている。

花街。

当然ながら、たいてい大きな歓楽街のもとは廓(くるわ=遊郭)である。
通念上、現在、遊郭から”色事”を廃した街が「花街」ということになっている。

“色事”を廃する。

太平洋戦争後、それまで日本が公認で売春を認めていたことに1946年、GHQが廃止を指令し、それによる売春防止法の施行(1958年)以降、娼妓(「遊女」ともいう。娼婦、売春婦の古い呼称)が居なくなって、芸妓(芸者)、舞妓だけになったという意味だ。

遊郭は、娼妓を廃して「花街」になるところ、そもそも娼妓が中心になっているところは、遊郭ごと無くすか「花街」への転換が行われる。
遊郭廃止や花街への転換には猶予期間が与えられ、「赤線」地区と呼ばれ、半ば公認で売春が継続する。

京都でいうと、娼妓中心であった祇園乙部(赤線廃止にあわせて「祇園東」に)や宮川町は赤線の時期を経て「花街」になる。
赤線廃止後もすぐしばらくは表向きに芸妓のいるお茶屋や置屋を装って闇の売春営業を警察に摘発されることもあったようだ。

遊郭ごと無くすといっても多くは歓楽街、風俗街になるが、嶋原遊郭は赤線の頃までは夜は多くの男性客で賑わっていたが、赤線廃止後に「花街」になったものの、遊女(娼妓)の町から遊女がいなくなって、太夫こそいるが現在は花街としても全く形骸化している。
(追記:嶋原には花魁はいなかったと豪語する方々もおらえるが、戦後すぐに嶋原の揚屋 角屋で「おいらん餅」を花魁らがこねて配る行事の様子が写真が残っている。)

遊郭が公認だったのは明治維新後、国も全国どの地方の自治体も、慢性的な財政難で、遊郭は自治体にとってほど大きな税収源であったことにある。
とくに京都においては遊郭が世界恐慌の時期も府外から客を呼んでブレることなく収益を上げ、京都市においても、京都府においても、税収がどの産業よりも多かった時期すらあったらしい。

戦後は、任天堂や島津製作所、京セラ、ワコールなど全国的世界的有名企業もあるが、当初は着物などに関する繊維産業が中心で、需要の減少から衰退を余儀なくされるが、花街がそれらの一大消費先であることは現在も変わらない。

芸舞妓や花街はそもそも京都だけの文化ではないが、他の地方では衰退しても、京都だけはこれを大事にしているのはそういう歴史的関係があるからかもしれない。

赤線廃止も東海道新幹線の開通も偶然のタイミングではなく、日本が変わっていく同じ時代の流れにあったと思うが、京都は1960年代以前のイメージの大転換が図られるなかで、併せて花街のイメージもまた美しく置き換えられ、舞妓といえば京都といわれるまでになる。

ゆえに京都の自治体は花街を無碍にできないし、強く出られない、ということがあるかもしれん。

伝統。

近年「伝統」という言葉が冠せられたものに価値を感じたり、心躍らせる人も多い気がする。
個人的な印象だがとくに京都好きを標榜する人に「伝統」に心酔している人が多い気がしている。

この言葉自体は中国の漢の時代の書物にもあるらしいが、日本で頻繁に、一般に使われるようになったのは昭和からのようだ。

日本の伝統と呼ばれるものは、調べてみるとほとんどが明治になってからのもので、

たとえば、神社にお参りするときは二礼二拍手一礼などの約束事を行うけれど、そもそも明治に神仏分離令が出る以前は神仏習合で、神官ならともかく庶民に神社にお参りの仕方にルールがあったとは思えないし、

皇室行事も、最近も天皇陛下の即位に際しての大嘗祭が昭和やそれ以前のように行うべきだという話もあったが、そもそも歴代天皇は仏門に帰依したかたもかなり大勢おられるし、神式で厳格に行うことのこだわりには疑問もある。

初詣も鉄道会社の集客ではじまっている。

京都の花街もその始まりこそ江戸時代以前にさかのぼるかもしれないが、現在われわれが目にする町の様子や、舞妓の身なりやらは明治時代に整ったもので、花街の営業許可は全国でほぼ同じ時期に下されている。

平成以降生まれには100年を超えればすごく歴史を感じるかもしれないが、昭和世代には自分の祖父母が明治生まれも普通なので、明治はそう遠い昔とも思えない。

歴史好きは伝統に惹かれやすいようで、僕もしかりで、ずっと混同していたが歴史と伝統は決して同じ分類のものではない。

僕はちょうどバブルの頃にトラッド・ファッションに凝っていて、そのせいでアパレルに就職し、その分野に詳しくあることを求められた時期がある。
トラッドとはTraditional、日本語で「伝統的」と訳される言葉からきたものあるが、不易流行を指していると学んだ。

ふえき-りゅうこう【不易流行】
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。
また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。

 

伝統も、変わりにくい”流行”の一つでしかない。

日本でいう伝統の多くは、欧米化や機械化、エレクトロニクスなどによる合理化や現代における常識や生活習慣において「時代に合わなくなった」ものをあえて残すための口実になっていて、そういうものに多分に日本らしさみたいなものを感じたりして、魅了される一般の方すらおられるが、結局はこれに関わる人たちの自己防衛になっているように思う。
伝統を語らねば無くなってしまう。

さらにそれ自体を一切変えることを頑なに望まない傾向もあって、優れた本質を伝えていくという本当の意味からズレている。
故意なのか、思考停止しているのか、不都合なものもベールにかけて、不可侵にして逃げていることにもなっているかもしれない。

私たちも、伝統を冠するものを疑うことなく無条件に信奉するのではなく、伝えて残すべきものなのかを確認し見定める観点が必要だ。
伝統はそもそも”流行”なのだから。

歴史は起こってしまった過去のことで変えられない。
何事も過去にあったことに由来して今の事情があるので、それを踏まえないで現状を今の価値観や基準で非難することは、若い世代の方に多いようだが、いい大人のすることではない。
しかし良い過去も悪い過去も認めて、この先の未来をどう変えていくかを考えなければならない。

伝統と呼ばれるものもまた、どうあるべきかを考える。
伝統を不都合を隠すベールにして、弱者に被害が出るようなことなどあり得ないことだ。

イメージだけでなく、名実ともに魅力的な京都となり、花街となることを願う。

「芸妓の街」としての今里新地の歴史

「今里新地」を検索すると、”場末な色街”として興味本位な情報しか出てこない。

近隣住民としては身近な場所に他の土地の、この街をよく知りもしない人たちのそういう奇異なものを見る目線しか集まらないのはあまり気持ちのよいものではない。
でもその情報の内容もかなり偏見に満ちたものもあるが、否定できないものもあるのもまた事実。

しかし今里新地は当然、当初から”場末な色街”のような場所だったわけではない。

そこで私は誰も書いていない今里新地ができた頃の華やかな当初のすがたを書いておこうと思いたった。

大阪五大新地の一つに数えられた今里新地。

京都の舞妓、芸妓から発展的に花街への関心をもっている人や戦前の日本に関心のある人に応えるような、また近隣の方やこの街を知っている方にとってはこれまでとは少し見方が変わる「今里新地」の検索結果になればよいと思っている。


昭和5(1930)年、いまの近鉄である大軌電車が沿線開発の一貫と都市部拡大が進むことによる大阪市内の遊廓整理の流れで、所有していた現在の今里駅南側の広大な所有地に大阪府の営業認可を得て、子会社の今里土地株式会社によって「芸妓居住指定地」とし、歓楽街の「今里新地」を誕生させる。

今里新地組合編纂の「今里新地十年史」によると「芸妓居住指定地」というのは、体を売るのが仕事である娼妓がいる「遊廓」ではない、芸事を売る芸妓の街とある。
現在、京都の花街は「はなまち」という読み方は娼妓がいるイメージがあるので「かがい」という呼称で統一し、TVやメディアでもそう読ませているが「芸妓居住指定地」がその「かがい」と同じ意味である。
昔の今里新地という場所は今の私たちが見ている祇園や京都の花街のような雰囲気であったと想像できる。

事実、今里新地は当時大阪の売春目的のカフェバーの乱立や私娼の横行に対する風紀を正そうとする機運のなかで誕生している。
(ただ、芸妓が客と交渉をもつことを禁じる規約のようなものはなく、”遊び”目的の「転び」という芸妓もいて、貸座敷の宿泊利用も正式に認められていたことが、やがて戦後のこの街の本質になってしまうのだが…。)

「今里新地十年史」に掲載された地図によると、その広さについては現在地元の方々も周知している、今里駅から少し離れた新今里公園の南側、生野区新今里3丁目区域の一区画だけではなく、駅の目前の「新今里」を冠する町名地域ほぼ全体が「今里新地」で、新今里公園(当時は今里新地公園)も今里新地のど真ん中につくられたもので、芸妓や関係者の自宅や生活する上のお店や施設などもあったとはいえ、とてつもなく大きな花街、歓楽街であったことは間違いないだろう。

街区のかたちが芸妓の舞扇を思わせる”末広がり”で縁起がよいと謳われたようである。

新地が開業された年の、新しい木造の家屋がどんどん建てられていく街の様子を当時の新聞も書いている。

大阪朝日新聞 1930.6.1 (昭和5)

「東大阪の新歓楽地帯今里土地の発展振り – レコード破りの素晴らしい売行き」

大軌沿線片江に下車すればその南方の地域に展開されている情景には誰もが一驚を喫するであろう、即ち木の香新しい粋な作りの家並が揃い、尚処女地をグングン開拓して其処に鑿の音も景気よく建て増され新興の意気の漲っている素晴らしさで、此処許りは不景気知らずの別世界、この新市街こそ東大阪の新歓楽境として己に日夜絃歌の声を絶たない今里新地である。

この地域は今里土地株式会社の経営で所有地は約八万坪、大阪から巽の方角に当ることも喜ばれているがその上大軌上六から僅に四分という交通至便の強味がある。

同地域が指定地として認可されて昨年十二月一部家屋の建築が竣成すると同時に各方面から料理屋、芸妓置屋、飲食店、その他各種営業者は簇出して、その初め僅に十名の芸妓で開業した今里新地はその後数月を経たない現在に於ては既に料亭四十余軒、芸妓置屋十軒、飲食店その他数十軒に及び芸妓数は百名を超ゆるというレコード破りの発展を見日を遂うて殷賑を極めている、この地区には、気の利いた三千坪の公園を配し、数奇を凝らした大浴場も近く完成せんとしている。

世を挙げて不況の声を聞くとき各方面の人気は一斉にこの今里新地に集中して土地建物の希望は日を逐うて顕われ、現在六百余名の賃借又は買受希望者が殺到している盛況であるから、本年中には戸数三百戸、芸妓数二百名を突破することは必然であるとされている。

同地域は目下区劃整理中でその工事を急いでいるから、そのの完成の暁は区劃整然たる美わしい市街を現出すると共に将来市電は同地域の西方に接近して開通の予定であり、又大軌の停留所はこの地域を挟んで東西に新設される計画で交通に於ても又多分に恵まれ、その有望なる将来を如実に物語っている。

同地の地価は一等地で坪百二十円乃至百四十円という廉価であるが至極便利な同社の年賦売買に就て記せば 土地買受代金は即金の外は十ヶ年以内の月賦払で一割以上の内金を納め、土地代の金利は七分である。
右の土地に家屋を建築して土地と共に年賦払とすることが出来る。建築代は二割以上の内金を納め、金利は年一割である。
右の如く十ヶ年間家賃にも足らない月賦金を支払いさえすれば何時の間にかその土地は自分の物となり家主となる楽しみがある、この地域を商業地、住宅地、遊楽地、興行地、公園等に区分して夫々相談に応じている。
詳細は大軌線今里片江停留場下車南、今里土地株式会社(電天一一五四・二三六一)へ照会せられたい。(写真は経営地の一部)

[写真あり 省略]

(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 土地(7-137)から引用)

 

大軌(現在の近鉄)今里駅は今里新地の玄関となった。
「今里片江」だった駅名が新地開業に併せて、昭和4年に改名されている。
駅は新地の中央でなく東端に位置しているので、反対の新地の西の端、今里筋と交わるところにもう一つ、今里新地の玄関になる駅をつくって東西から新地への旅客誘導の計画があったようだ。

最盛期に2,000人を超える芸妓が今里新地に所属していたと資料にあるので、町中を夜は白塗りで島田髷の芸妓たちが闊歩していたのはもちろん、昼間も町にはそこここで三味線の調べが鳴り響き、舞や音曲、お茶やお花の稽古に行き帰りする和服姿の女性たちが見受けられるような独特な雰囲気のある街であっただろう。
ただ現在より当時は着物姿の一般女性も普通にだっただろうから、いま祇園界隈を歩いて感じる、前時代へのタイムスリップしたような感覚をおぼえる空間では当時はなかっただろう。
新地の街区は料亭やお茶屋、花街関係者、その生活を支える商売をする人たち、一般市民の家族で2,000世帯、2万人ほどの人口に達したそうである。

よく大阪の花街である南地も最盛期に2,000人ほどの芸妓が居て祇園より遥かに多かったと関係者が話すのを聞くが、おそらくは同時期に今里新地は同規模かそれ以上の規模を誇っていたのではないかと思われる。

その昔は大阪市内から夜の暗い田舎道を連なってハイヤーがこうこうとヘッドライトで照らしながら闇に光って浮かぶ今里の不夜城を目指して来たのだそうである。

今里新地が開設された頃は、その周辺はまだ田んぼが果てなく続くような平坦な何にもないところで、新地が現在の「今里」の基盤になっていく。

現在「今里」という街は近鉄奈良線の高架を境に北は東成区、南は生野区になっていて、今里新地は生野区がわにあり、東成区がわは今里新地とは無縁の街づくりがなされてきたように、区役所で配布される資料や地元の学校がそんなふうに教えているので、今の地域の人たちはそう思っているかもしれないが、新今里の真北に隣接する東成区大今里南1~3丁目には2階の窓が丸窓だったり、窓の欄干に特異な意匠があるような、もとは花街の建物だったのでなはいか思わせる古い家屋が今はわずかではあるが見受けられる。
そもそも生野区は昭和18年に東成区から分区しているので、新地の華やかし頃に地域の市民は同じ街だと思っていただろう。

じつは私の生家だった東成区内の建物も今は無いが、もとは盆屋(ぼんや、待合ともいう)の建物だったころを最近知った。(断っておくが私と私の家族はその盆屋が家業だったのではない。住居として建物を買い受けただけである。)
盆屋は花街や遊郭といわれる場所にあるものだが、詳しいことはここでは控える。ご興味あられるかたはご自分で調べていただきたい。

またこの地域には吉本や松竹の芸人や落語家が居住したことも知られている。
芸事で食べている人たちを好意的に受け入れる風土は今里新地に連なる場所ゆえだったのではないか。おそらくは新地からお呼びがかかって座敷に出向いていたであろうことも想像に難くない。

今里新地の芸妓らも落語家たちの下宿であった「楽語荘」があった場所から歩いてすぐの七福橋の渡り初め式に花を添えている。


現在も、すでに下町になった新今里の界隈には町にはどうも似つかわしくないような、大きな和菓子屋さんや昔商売をされていただろう着物の洗濯や着物に関する商いの看板であったり、現存する料亭がある。

公園の北側にある「玉家駐車場」の「玉家」は今里新地の組合の最初の総会が行われた大きなお茶屋の跡である。

町工場やマンションが多いのはもともとお茶屋や料亭などの大きな建物の跡地があったからだ。
いまも、ただ駅前界隈というには広範囲に店舗も多い。(現在は廃業しているものも含めて)

松福堂には「ふるべの鈴」という、おおぶりなお菓子がある。
お座敷遊びをした客にお茶屋がおもたせ(土産)にしたものだ。「いしきりさん(石切劔箭神社)」の拝殿の鈴をイメージしたものらしい。
往時の大軌電車の大阪府内の2大名所は今里新地といしきりさんだった。いしきりさん詣りの帰路の夜、今里新地に立ち寄る客も多かったようだ。

たこ焼きの元祖として知られている会津屋はこの今里新地で創業している。
東京で料理の修行を終えた会津坂下町出身の遠藤留吉氏は昭和8年に「会津屋」の屋号で、醤油を下味にした水溶き小麦粉にネギやこんにゃくや牛すじ肉などを入れて焼く「ラヂオ焼き」の屋台を営んでいたが、新地の客の明石のタコが入った「玉子焼き」の話を聞いて具をタコに変えて、「たこ焼き」と名付けて売り始めた。
じつはたこ焼き発祥の地は今里新地なのである。

ちなみに小説家の東野圭吾氏はこの界隈で生まれ育っておられ、「浪花少年探偵団」に出てくる「ポンポン」という洋菓子店のモデルは「洋菓子ケンテル」である。
ケンテルがこの地に開業したのは昭和42(1967)年のことであるが、当時もおそらく街には芸妓の姿はちらほらはあったのではないかと思われる。



今里新地演舞場は今里新地公園(現 新今里公園)の真南、現在の大阪信用金庫今里支店の場所にあり、現在も京都の花街でも行われているような、踊りや三味線などの稽古の成果を披露する「温習会」が毎年6月に催されていた。
しかしながら今里新地では踊りの舞台よりも公園での屋外イベントのほうが一般市民にも注目され、精力的に行われていたようだ。


新今里公園は現在もたくさんのサクラの木があり、春は地元ではなかなかの花見の名所なのだが、それもそのはずで往時はこの場所で「今里新地の夜桜」と銘打った、芸妓総出での一大イベントが毎年行われ、大軌電車の駅で告知のポスターが貼り出されたり、パンフレットも配布され大きな集客があったようだ。
その目的で植樹された桜の名残である。


この公園の南半分は中学校の校庭くらいの広さのグラウンドになっていて、近隣の市民が思い思いに球技や運動を楽しんでいるが、この場所も公園開園時からも芸妓たちの健康のための運動場だったようで、2,000人の芸妓らを一同に集めてラジオ体操や贔屓客を観客に招いた運動会なども行われていた。
また毎年夏には大きな舞台を組んで、その上に建てた櫓の周りを芸妓らが輪になって踊り、ビヤガーデンなどもあった「盆踊り」は夏の名物行事だったようで、黒山の人だかりの来場があった光景の写真が十年史に掲載されている。

現在も公園の東端にある末廣稲荷神社は「今里稲荷社」として、今里新地開設の昭和5年に、新地の繁栄を祈願して今里土地株式会社によって伏見稲荷神社から勧請された小祠である。いつから末廣の名前になったかは調べてはいないが、先述のように、街区のかたちに由来しているのではないだろうか。芸妓の舞扇にちなんだか、いずれにしても、花街らしい名前である。
十年史の小さな写真から推測するに、おそらく現在の鳥居の正面に連なる公園の通路部分も参道があったのではないかと思われ、鳥居ももう少し社殿寄りに現在のものより大きなものがあったようだ。
現在は東側ににふくれたアンバランスで植樹も珍妙な境内だが、もともとはやはり左右対称でもう少し大きく、神社らしい佇まいだったようで、毎年稲荷祭や大胡麻神事なども関係者らにより盛大に行われ、平素も参詣者の絶えない神社だったらしい。
花街にお稲荷さんはつきものであるが、芸妓たちがめいめいに夜は白塗りで仕事の前に、昼間は稽古の行き帰りに参詣し、おしろいの匂いのする神社であったかもしれない。
いまでこそ近隣の市民のために自治体が管理する公園であるがつくられた意図は他の公園とは全く違っていて、新地のど真ん中に位置し南向かいの演舞場とともに今里新地のランドマークとしての位置づけであったように想像される。


南地にはかつて舞妓がいたが今里新地にはいなかったようだ。

妓丁(ぎてい、芸妓の丁稚(でっち)みたいな意味か)という芸妓見習いがいて、その管理が雇用先なのか組合なのかの議論があったり、妓丁がストライキもしたようなので、舞妓のような客前に特別な容姿で出ていた写真などは見当たらないがお座敷の仕事に欠かせない役割もしていたように思われる。


この巨大な花街だった今里新地であるが、開設からまもなく日本は戦争に突入し、新地の芸妓たちは軍隊慰問や報国活動、勤労奉仕に追われていくことになる。

そして開設から15年の昭和20年6月15日の空襲で今里新地の北半分は焼け野原になってしまい、北半分はほとんど町工場や宅地化し、戦火を免れた生野区新今里3丁目の区域だけが「今里新地」として営業され、現在に至る。

戦後、各地の花街はバーやキャバレーなど、サラリーマンらに向けた風俗営業への業態の変容がすすむとともに、「今里新地」はGHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間は半ば公認で売春が行われる「赤線(あかせん)地区」になり、その後も、法に触れない理屈で営業を続ける店が残り、平成には働き手に外国人女性が見られるようになり、

そして、やがて今里新地の現在周知されている色街のイメージの街区につながっていく…

華やかな芸妓の街としての今里新地は大玉の打ち上げ花火のように、大きく派手にあざやかに輝いて、すっと素早く消えて終わってしまったと言えよう。


ここまで読んでくださった人は他のネットの情報とは違う今里新地の印象をもっていただけただろうか。

私自身も子どもの頃は「今里新地」に行ってはいけないと親に言われていた。
それが「子供が行くと危ない場所」という意味ではなく「子供が来る場所ではない」という意味だったことに気づくのはそこそこ大人になってからだった。

京都の舞妓に魅かれて、花街文化に触れ、花街の歴史に触れると、身を売って稼ぐ娼妓がいないのが「花街(かがい)」と言われても、時代をさかのぼれば「遊廓(遊郭)」と区別のしようがないものであったことも、時代を下れば現在の風俗街につながっていくこともまた否定しようがないこともわかってしまう。
それが娘が憧れる舞妓にさせたがらない家族の基本的な花街の印象のひとつになっていることは否めない。

この街の世間の印象を否定するまではできないが、しかし、花街文化を肯定的に興味や関心をもってくださる方々には魅力的な、祇園と同じような風景がかつてここにあった事実に、好意的な目をこの界隈に向けてくれる人、少し見直してもらえる人もでてくることを期待している。
近隣やこの地を知っている方々には街への思いや界隈を歩く思いが少し変わればうれしく思う。

しかし、この私の投稿を見てはじめて今里新地を知って期待を膨らませてこの地に足を運んでもらうことにはさすがに躊躇がある。美味しいお店もあるが観光気分でうろつく街ではないので理解しておいていただきたい。
風俗の店が集まる場所は風俗街以外の何ものでもないわけだし。

今回は、今里新地の往時をしのばせる、一番参考にした「今里新地十年史」という本からの写真の引用などは権利の関係でできなかった。
国立国会図書館のデジタルライブラリーから「今里新地十年史」の現物の全ページを見ることができるので、もっと知りたい、関心を深めたい方はご覧いただきたい。

東京のYEBISUな神社

つい最近、ホームページのお仕事でクライアントの賃貸物件が大阪の恵美須町にあるのに、EBISUと名前につけてるのを見て、間違ってはないけど詐欺っぽいなあと思ったことがある。

そういえば、知ってる関西の人が東京に転居されて1月10日だから、恵比寿の恵比寿神社に行ってみたけど、何もやってなかったと言っていた。

東京の恵比寿という場所はもとは下渋谷村というところで、明治22年にヱビスビールの工場ができて、ビールの出荷用にできた貨物駅も「恵比寿停車場」と名付けられ、この界隈は工場で働く人の生活の場ともなり、昭和3年に村は恵比寿という地名になったらしい。

恵比寿には2つの「恵比寿神社」があって、ひとつはヱビスビールを製造する日本麦酒醸造会社、いまのサッポロビールが明治27年に工場の敷地内に自社の商売繁盛を祈念して、兵庫・西宮神社から勧請されたものが、工場跡に恵比寿ガーデンプレイスができたのを機に一般に開放されたもので、そういうわけだから、社務所などもない。

もう一つの恵比寿神社はもとは「天津神社」と称されていた神社に、戦後の区画整理に併せた社殿新築を機に、事代主神を合祀して、以来「恵比寿神社」と改称されたそうだ。

そういうわけで商売繁盛のえびす信仰と縁はあるものの、祭礼や風習まで引き継ぐほどのものではなかったということである。
サッポロビールが勧請したのがヒルコ神で、旧天津神社のほうが事代主神を勧請していて、えびすさまと呼ばれるの二神をそれぞれに祀っているところが偶然なのか、旧天津神社のほうがそうしたのか、なかなか興味深い。

余談であるが「エビオス錠」という薬の名前がエビスっぽいはもともと発売元が日本麦酒醸造会社で、ヱビスにギリシャ語で「命の素」という意味のBIOSを合体させて命名したからだそうである。

六甲颪に颯爽と

今年前半のNHK朝ドラ「エール」のモデルが古関裕而さんであるが発表された時点でかなりの阪神タイガースファンの方々がおぉと反応したのではないか。

作詞 佐藤惣之助、作曲 古関裕而。

六甲おろし、正式には「阪神タイガースの歌」。

阪神が勝てば、いや何かうれしいことや祝い事があれば、自分を鼓舞したいことがあれば、かつては中村鋭一のレコードを、立川清登のカセットを、唐渡吉則のCDを引っぱり出して、現在はYouTubeで探して大音量で掛けた経験のある人は関西方面には少なからずいるだろう。

「大阪タイガースの歌」は昭和11年3月に甲子園ホテル(現在、武庫川女子大学甲子園会館として残る)で行われた、チーム激励会の中で初披露された。

選手たちは1-2月に甲子園で初練習を行い、加古川市の浜の宮公園で初めてのキャンプを行っているが、吹き荒ぶ”六甲颪”の寒風に負けじと練習に取組む当時の様子が歌詞から想像される。

古関さんが作曲したのは「”大阪”タイガースの歌」である。

阪神タイガースは昭和10年に株式会社大阪野球倶楽部」として阪神電車の出資で誕生し、通称は「大阪タイガース」であった。

米国のMLBのチームが親会社やスポンサーの名前ではなく地域や都市名を冠にして、地元に溶け込もうとした理想に当初のプロ野球は基づいていた。

Jリーグは初代チェアマンの川淵三郎さんの奮闘で、とくに讀賣の渡邉恒雄会長と激論の末にこの理想を今も貫いている。

この理想を砕いたのは太平洋戦争で、

東京ジャイアンツ(大東京野球倶楽部)も大阪タイガースも出資会社が親になって配下に吸収して経営することになったせいである。

そして戦時の敵性語禁止令で当時は「タイガース」や「タ軍」と呼ばれていたのを「阪神」に変えて、ユニホームの胸につけたことが、他の電鉄系球団との区別や対比でむしろ定着し、昭和36年に会社及び球団名を「阪神タイガース」に改称する。

これに併せて「大阪タイガースの歌」は「阪神タイガースの歌」に改称され、歌詞にも変更が加えられた。

サビが、オゥオゥオゥオゥなのは、大阪につなげるためのリフレインで、現在は阪神に置き換わったから、歌うときに一旦息継ぎが必要な不自然な歌になっている。

「阪神タイガースの歌」の通称「六甲おろし」を定着させたのは元ABC朝日放送アナウンサー 故 中村鋭一さん、ファンには鋭ちゃんと広く知られる方である。

関西の中高年以上の方には”えーちゃん”と言われて矢沢永吉より中村鋭一を思い浮かべる人は少なくない。

それほど高視聴率を誇った昭和40年代ラジオ番組「おはようパーソナリティー中村鋭一です」の番組中に、当時はプロ野球ファンには関心の無かった球団歌である「阪神タイガースの歌」を発掘して、阪神勝利の翌朝に「声高らかに六甲颪だー」と叫んで歌い出すさまが関西地区の朝の風物詩にすらなってしまったことに由来する。

結果、そもそも社歌のようなものであった球団歌がプロ野球の観戦に欠かせなくなった始まりである。

僕は音楽の良し悪しは全然わからないが中村鋭一さんの”六甲颪”は子どもの頃、家で朝に聴かされていたこともあって耳慣れしていることは多分にあると思うが、他の歌手とは違い、歌手でもない中村さんがアナウンサーとして鍛えられた声とはいえ素人のタイガース愛だけで歌いあげる歌に、みんなも併せて歌い易さを感じるし、朝のすがすがしさや、よし頑張るぞ、という気合い入れには向いている感じがして、近年はタイガースの応援どころか野球すら観ていないが、自分を鼓舞したいときには中村さんの曲の抑揚で口ずさむことがある。

中高年以上のタイガースファンの方々には圧倒的にこの曲が六甲おろしだろう。

球団が公式に球団歌としたのは、立川清登さんの「阪神タイガースの歌」である。

この曲は平成の始め頃まで甲子園球場でゲーム前のチーム練習でタイガースの番になったときに奏でられ、スタンドのタイガースファンにいよいよであると高揚させていた。

1985年頃から試合勝利後に球場でファンが合唱することが定着していくが当初はこの曲にみんなが併せていた。

立川さんのものを「正調」などと言うタイガースファンも多いし、これを聴くとやっぱりかつての甲子園球場の様子が思い浮かんでくる。

日本一になる勢いで、カセットに、のちにシングルCDになったが、その後立川さんサイドとの権利関係の問題とやらで、六甲おろしは歌唱無しのものなど球団としては公式に特定の歌手が歌うものを選定していない。

若いタイガースファンの方々にはこれらのどれでもない、唐渡吉則さんの歌こそが六甲おろしという印象をもたれている方も多いだろう。

あえて紹介しないのは、僕の信条というか、思い入れがないからだ。

近年の人気歌手たちの輪唱もしかり。

僕はかつては虎ブロガーだった頃もあるが先にも書いたが今はタイガースを応援するどころか野球すらほとんど観ていない。

甲子園球場も子どもや女性の方々への配慮が行き届いた結果、スタンドからヤジのひとつも出ず、湧き上がる”🎵がんばれがんばれ○○〜”というコールがこそばゆく不快で、勝負の場の臨場感というか、殺伐感が無くなって魅力を感じなくなってしまった。

1980年代頃からブンチャカ応援マーチが轟くようになって、すでに難しくはなっていたが、さらにそのように人畜無害化してしまった場所に村山vs長嶋や江夏vs王のような息をのむ一騎討ちを、それを固唾をのんでスタンドで見まもるという野球の大きな魅力がもう二度と期待できないと悟ったからである。
演ずるほうはもちろん見るほうにも多少の血の気は必要だからだ。

いまでも六甲おろしは歌うし、タイガース以外を応援する気はないし、「闘魂こめて」を聴くと無性にイライラして拳を固めてしまう僕は「昔のタイガースファン」ではあるけれど、現在のタイガースファンではない。

そういう事情で唐渡さん以降は書かないので、聴いてみたい気になったら、申し訳ないがご自身でググッてYouTubeやら、CDやらでお願いする。

カミサマと向き合う

コロナ禍自粛で仁-JIN- が再放送されていて、このドラマ自体は面白くて本放送でも欠かさず見ていたのだが、このドラマのキーワードである「神様は乗り越えられる試練しか与えない」が頻繁に登場し、登場人物の行動を左右していることに強く違和感を覚える。

というのは、このワードは新約聖書の「コリント人への手紙」にある一文で、幕末には外国人の出入りや滞在があったのでその影響をまったく否定はしないが、それでもまだ鎖国の日本の日本人になるほどそうだと受け入れられるとは考え難い。
日本の神社のカミサマはそういう存在ではないからだ。
古代や平安時代の頃のように畏怖を感じて祀られることはもうなくて、現在のように願掛けをしにお詣りさせていただくようになっていたとは思うが、人を試すための試練など与える存在という認識はさすがにないだろう。

このコロナ禍で京都の八坂神社などでは境内に夏に見る「茅の輪くぐり」の茅の輪が設けられたりしている。
八坂神社は昔から疫病退散を祈願する神社で祇園祭もその意味合いから行われている。
主祭神はスサノオノミコト。
“荒ぶる神様”で私たち人の目線では決して善行ばかりをなさった方ではない。
茅の輪や粽にまつわる話は過去に書いたとおり。
そもそもは暴走され、世の中に災いを起こされないようにおいさめするべく祀られ、氏子たちはご機嫌をとるために祇園祭を行なっているという、畏怖によって祀られたカミサマである。
だから、コロナから私たちをお救いください、というよりは、コロナを撒き散らすようなそのお怒りをお収めください、とお願いするのが正しいように思う。

さて、みなさんは家の近くの氏神や初詣に行く神社に祀られているカミサマが誰でどんなカミサマかご存知だろうか。
お寺のご本尊もしかりであるが。

自分のことを誰かにお願いにあがるときに名前も、素性も、その専門も知らないでお願いができますか?
古事記を読みなさいとまでは言わないまでも、参詣前にちょっとググってみよう。
親しみも湧くだろうし何をお願いすべきか確認ができる。
氏神さまの名前も素性も知らないなんて近所付き合いとしては失礼があるんじゃないか。

逆に、あなたも願い事の前に住所と名前の自己紹介くらいは先に伝えること。
相手も見知らぬ者にお願いされても聞き入れにくい。

そう考えていくと本当のところ小銭でいっぱいお願いしても向こう様も挨拶程度にしか応えてくれないのもまたしかりというわけだが…