「どうでもいいウンチク」カテゴリーアーカイブ

宝恵駕行列の「ほえかご」とは

令和8年(2026年)1月10日の今宮えびすの「宝恵駕行列」の先頭、「本隊」の駕籠に現役の南地芸妓がおよそ20年ぶりに乗輿した。

今宮戎神社の十日えびすでは毎年コンテストでいやいまはオーディションというべきか、選ばれた福娘たちが注目の的で立場も巫女に近く、「宝恵駕行列」においてもスポンサーに福笹を届ける役目を担っていて、この行事の主役と言って過言ではない。

「宝恵駕行列」の「宝恵駕」とはなにか。

「宝恵駕籠」は神社の例祭に芸妓舞妓が贔屓の旦那の代理で遊女が駕籠に乗って代参するという、かつての関西の花街の慣わしのことで、いくつか各地の花街にその痕跡があるが、とりわけ大阪・今宮戎神社に程近い南地花街の「宝恵駕」が有名であった。

つまり本来、福笹のお届けは、先頭の駕で行く芸妓のつとめだったのだ。

かつて現在の大阪ミナミにあった南地花街では、お正月の十日えびすになると、人気の芸妓や舞妓は代参で贔屓の旦那の数だけ何度もお茶屋と今宮戎神社を何度も駕籠で往復する。旦那はそのために一張羅の着物を彼女たちのために誂えるので、毎回違う衣装で駕籠に乗るので、それは祭りの雰囲気の中、沿道の客の目を楽しませるのには十分過ぎるものであった。

南地には大和屋、富田屋(とんだや)、伊丹幸(いとこう)などの大勢の芸妓が席を置く大店(“おおだな” = 規模の大きな店) のお茶屋があり、基本的には旦那の依頼で芸妓・舞妓の駕籠が都度都度移動していたと思われるが、大店のお茶屋の芸妓たちは全員打ち揃って行列を成して今宮戎神社に向かうようなことをおそらくはしていたのであろう。店ごとに時間差で出発したりの工夫はあっただろう。
それが現在の「宝恵駕行列」の原型イメージなのではないかと思われる。

太平洋戦争の空襲で南地花街は焼け野原になり、衣装も店も多くが失われ、芸妓も少なくなり、終戦後も宝恵駕は大和屋や数少ないお茶屋がで続けていたが、昭和34年(1959年)で中止になる。

その後今宮戎神社からの懇願もあり、ミナミの地域行事としての復活を目指す動きがあって、メディア関係の力も借りて、昭和41年(1966年)ミナミの商店街が中心に宝恵駕保存会 (現:宝恵駕振興会) が結成され、福娘や歌舞伎役者、吉本の芸人、NHK朝ドラの出演者など大阪・関西で時の話題の人を招いて駕に乗せるような、現在の福娘が福笹を届けてまわる「宝恵駕行列」が始まり、今日に至っている。

駕籠は保存会が用意するが、大和屋は独自に自前の一丁駕籠を設け、所属の芸妓を選んで乗せ、行列の「本隊」として「宝恵駕」の伝統をまもり、毎年行列の先頭を飾ってきた。
今も先頭の「本隊」は「南花街」の提灯を掲げ、現在も花街関係者と称される人たちによって、駕籠が担がれ、ともに今宮戎神社に向かう。

大和屋では当日芸妓衆の舞、一丁駕籠に乗る芸妓が一人舞を披露したあと、女将が挨拶をし、鏡開きをしてそのあと女将が芸妓を抱えて駕籠に載せていたらしい。
抱えて載せるのは祇園祭・長刀鉾の神聖なお稚児さんのような扱いではなく、ただ「景気づけの演出」だったらしい。
戻ってきた駕籠に旦那らが乗り込んだりしてゲン担ぎなどを楽しんだそうだ。

平成15年(2003年)大和屋閉店以降、「本隊」駕籠には基本、大和屋出身の芸妓、元芸妓らが乗輿し、もはや近年は「本隊」はかつての「宝恵駕」の歴史を紹介するだけの役割にのみになってしまっていたが、令和8年(2026年)、元大和屋の女将の意向もあって、現在、南地唯一になっているお茶屋「たに川」の現役芸妓が伝統の一丁駕籠に乗せていただく誉れとなった。

再びあるべき古式の「宝恵駕」に立ち戻り、あるべきミナミ南地の伝統文化を伝承していく上でも大いに意義があり、歓迎すべきことだと思う。
駕籠に乗る芸妓、帯同する芸妓らも先達から「宝恵駕」のつとめと歴史を継承することに対して意気に感じている。
また、駕籠に追従する芸妓衆にもたに川の現役芸妓らが参加していて、彼女たちの衣装にも、普段の芸妓の身なりとは違う、伝統の継承がある。
(現在の芸妓の駕籠は当時からの”一丁駕籠”そのものではないかも知れないが概念的に”一丁駕籠”としておく)

ところで文中「宝恵駕」と「宝恵駕籠」をわざわざ書き分けている理由は今宮の十日えびすに関しては「宝恵駕籠」ではなく「宝恵駕」が正しい。
宝恵駕籠自体は江戸時代の頃からの、廓で太夫や遊女の送迎に使われていた「色駕籠」から発展したものという説がある。

今宮戎の「宝恵駕行列」では是非、本隊の芸妓の駕籠にも関心を寄せていただけると嬉しい。
「宝恵駕」は芸妓や南地花街にゆかりあるものが守っていくべきものではあるが、「宝恵駕行列」は市民である皆さんが関心をもって楽しんでいただきつづけることに未来への継続、継承があるわけで。

住吉さんの御田植神事と大阪花街の神話

毎年6月14日に大阪・住吉大社で行われる御田植(おたうえ)神事。
初夏の大阪の風物詩で、住吉大社ではそのあとに行われる夏祭より社の創祀の歴史にかかわる大切な神事である。親しみをこめて昔から”おんた(御田)”と呼ばれている。

住吉さんのおんたはじつは大阪の花街の歴史を語るうえでも重要な行事であることはあまり知られていない。

社伝によると、神功皇后が住吉大神 (底筒男命・中筒男命・表筒男命) の加護を得て三韓征伐に勝利し、帰還を果たされ、この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地にお祀りされたことに住吉大社ははじまる。
神功皇后は神々にお供えするお米を育てる御田(おんた)を設け、長門 (いまの山口県) から「田植女 (たうえめ)」たちを召され、田植えを任されたことが御田植神事の由来である。

長門から来た田植女たちはのちに「乳守 (ちもり)」とよばれるあたりに住わされ、御田の田植えをつとめ、五穀豊穣を祈ることを任務とされる。
その子孫が遊女になったとされ、その後、御田植神事において、重要な役どころである、田植女のすがたを写した「植女 (うえめ)」は堺の乳守遊廓の遊女がつとめることになる。

非科学的だと言うなかれ。神事は神話に基づくものなのだから。

そのような神話的経緯から、堺の乳守遊廓は長きに遊女の発祥、遊郭・花街の発祥地とも言われてきた。
それゆえに廓としても日本で一番格式が高い廓と言われ、江戸に吉原遊郭が開場するときも遊女の指導者として乳守から遊女が招かれ、彼女たちが住まいした妓楼のある区画は「堺町」とされた。

堺は南蛮との交易や鉄砲の生産で栄華を極め、乳守遊郭もことのほか繁栄した。
私の想像であるが、乳守遊郭の遊女が植女をつとめるようになったのは、乳守は紀州方面からの住吉大社への参道にあるし、おそらくは巨額の寄進を社に納めていたことも想像に難くなく、乳守の遊女が田植女の子孫というのも、WinWinな後づけな理由なのではないかと思う。

江戸時代になって、大和川の付け替えで堺の港が浅瀬になり海外からの大型船が寄港できなくなって、堺が勢いを無くして歴史の舞台から消えていったように、乳守遊郭も衰退の道をたどる。

明治になって、資金難の明治新政府は国内の大きな社寺の境内を強制的に召し上げ、民間に払い下げるという「上知令 (あげちれい)」のようなことを行う。

いまの京都・祇園町南側の花見小路界隈もそれ以前は通りの奥にある建仁寺の境内であったが、政府に召し上げられ、それをお茶屋「一力」は祇園の町が失われることを懸念し、結果的に政府から境内地を強制的に買わされたことがきっかけで現在の街がある。ゆえに「祇園町南側」はいまも街ごと私有地 (現在の所有は八坂女紅場学園) なのである。

住吉大社も例外ではなく、上知令で御田を召し上げられ、民間に売却されそうになったのを大阪の遊郭・新町のお茶屋や旦那衆がこれを買い戻し、それを社に寄進するかたちで御田が守られる。

そのときから御田植神事は、乳守が務められてきていたかは定かではないが、この出来事以降は乳守にかわって新町廓がつとめるようになり、その後、平成の頃までつづく。

江戸・吉原、京・嶋原、と並ぶ三大遊郭と称され、明治になっても大きな花街であった新町は、新町から住吉大社までゆうに1-2時間以上かけて、植女をつとめる遊女、のちに芸妓らが禿 (かむろ) とよばれる将来の遊女候補の女児をともない華やかな行列で、沿道の市民を楽しませながら歩いたようで、現在も境内のなかだけではあるが植女役の御田への入場にはその様子を今に残している。

新町廓では毎年、多くの遊女、のちに芸妓から誰が植女に選ばれるかは大きな話題となり、植女すがたには現地で神事を兼ねた化粧や衣装替えをして変わるので、行列では行列用の一張羅な衣装を旦那が誂えるということが恒例であった。
1979年に御田植神事が国の無形民俗文化財の認定をうけたのを記念して、以来神事に「御稔女 (みとしめ)」という、御前すがたで一人舞を奉納する役目が追加され、これを新町で一番人気の芸妓がつとめるようになる。

東海道新幹線の開通以降、ビジネスの東京一極集中が加速し、「旦那」がいなくなった大阪の花街は衰退の一途をたどり、新町も例外ではなく、平成の頃には新町だけでは植女も御稔女も十分な人数を送り出せず、「大阪花街連盟」という名のもとに、堀江、北新地、南地からも芸妓を応援で参加するかたちとなり、やがて、南地大和屋の芸妓だけのやりくりになる。
南地大和屋が閉店したあとは、「大阪花街連盟」の業務を継承した「大阪21世紀協会」の管理のもと、日本舞踊の社中や教室の生徒らが植女、御稔女役をつとめるようになり、今日に至っている。

誤解のないように書いておくが、現在も御田植神事では「新町廓」の提灯やのぼりがあがるように、神事を「南地」が継承して現在があるのではない。つまり最終的に南地の行事になったとするのは誤りで、南地大和屋の芸妓らも御田植神事には、あくまで「新町の芸妓」として、代理でのぞんでいたことを知っていてほしい。

現在は御田を取り囲む観覧席もチケット完売で多くの市民が見守る、時代絵巻を楽しめる、見ごたえのある行事となっている。御田に役どころの方々が入場されるまでの境内での神事、行事、各所への移動の様子も朝から見どころが多い。
大阪に住まいされるかたには機会をもってご覧になられることもおすすめする。

令和になって、南地では若い芸妓らが日々頑張って、花街文化の復興と新時代の開拓に努めている。
そして、新町花街の復興に動き出すひとも現れた。

衰退で役目を果たせなくなったのは大阪の花街の責任ではあるけれど、これからこの世界でがんばっていく、田植女とその子孫たる大阪の芸妓に、住吉大社の祭神となられている神功皇后からの託宣を果たさせてほしいと是非に願う。

芸妓らも歴史も伝統もある神事に関わり舞を奉納する経験や目標をもてば、誇りや社会貢献に意義を感じ、彼女たちの成長を促すだろう。
神事も史実に沿うことで歴史的な意義や価値が回復する。

伝統はそのものを単独で守るよりもいわれや関連のある伝統とともに守ってこそ、意味や存在意義を明らかにし、ともに長らえるものである。

ただし、神事は絶対穴はあけられない。

当日人の都合がつかないからその役どころは無しにはできないし、一年こっきりで人を出せないようでは何の信用もない。
芸妓は覚悟をもって役どころの責任を全うする。しかしそれがすなわち誇りとなる。
神事を絶やさぬことは当然、花街は一層後進育成に邁進せねばならない。

そういうことを踏まえても是非現代の若い大阪の芸妓たちをして”おんた”の歴史的回帰を実現してほしい。

第一回 南地たに川 鶴の會(つるのかい) – 舞が語る、南地花街の物語 – 2026年12月開催決定

大阪・南地花街「たに川」の芸妓らの踊りの会「鶴の会」が12月開催される。

かつて日本最大規模を誇り、京都・祇園甲部と双璧を成した歴史のある大阪の南地は、いまは日本橋・島之内に「たに川」のお茶屋が一軒残るのみ。

その「たに川」で日々舞や謡いの稽古に励み、おもてなしの伝統を継承している若い芸妓たちが、悲願の踊りの会に挑む。

芸妓たちは舞を映画「国宝」の舞踊の振付・指導を担った、谷口裕和 氏に、長唄を今藤政之祐 氏に師事。

先達の思いを継承し未来につなぎ、彼女たちが描く南地の歴史を目撃しに行こう。

2026年12月12日(土)
(1回目) 11:00-12:30 (2回目) 14:00-15:30 (3回目)17:00-18:30
(出演)  立方: まり鶴 千鶴 福鶴 富鶴
    地方: おり鶴
(会場)  山本能楽堂 (大阪市中央区徳井町1丁目3-6)

チケットの購入申込みはこちらから

カンテキ割った、すり鉢割った – 堀江盆唄と地蔵盆唄

私が子どもの頃の昭和40-60年代 (1960-80年代)には、8月24、25日の夜には自宅に面した路地で地蔵盆の盆踊りが行われていた。

そのときにスピーカーから何度も流れていた曲は、大阪ことばの、面白おかしい、”けったいな”歌詞の盆踊り唄だった。

「カンテキ割った、すり鉢割った エノ 叱られた」

その唄がふと思い出されて、いったい何という曲目だったのかと調べてみたら、「堀江盆唄」に関する記事や動画に行きあたった。
だが、動画の音楽を聴いてみると、私が記憶している盆踊り唄らしい曲調の唄とはあきらかに違い、さらに深堀りして探していくと、ようやく私の思い出の曲は「地蔵盆唄」という名前があることを知った。

「堀江盆唄」とは何なのか。なぜ「地蔵盆唄」と同じ歌詞をもっているのか。

昭和6年に堀江遊郭では阿弥陀池・和光寺で盆踊大会が催されることになり、そのために作られたのが「堀江盆唄」なのだそうだ。
和光寺では舞台が組まれ、堀江遊郭の芸妓らが舞ったらしい。
私たちがイメージしている町内会の盆踊りとは少し様子が違うようだ。

NHKアーカイブスにある「堀江盆唄」の動画は、昭和6年のその時かは不明だが、何回目かのその様子の記録映画のようで、なんかチャップリンみたいな挙動不審な人物が出てきたり、作り物のわざとらしい印象もあるが、いずれにしても遊郭の選ばれし旦那客がビアガーデンのような感じで和光寺の境内で芸妓らの舞を鑑賞する、そんな機会だったようだ。

カンテキ(七輪)を割る、すり鉢、マッカ(瓜)、ナスビなど、大人になればわかるけれど、遊郭という場所柄な隠語だ。堀江盆唄は盆踊り唄らしい曲調とはあきらかに違い、堀江盆唄は芸妓が美しく舞うための調べになっている。三味線の謡いも聴いていて心地よい。

阿弥陀池・和光寺の盆踊りはNHKラジオが中継して、広くリスナーの耳に届き、堀江盆唄はさながら現代の新曲リリースのように即日から有名になった。

同時期に南地や、新興の花街だった今里新地などでも盆踊りを催されている写真や記録があるので、堀江がきっかけになったのか、どうやら花街では盆踊りブームが起こっていたようだ。

世間は世界恐慌で不況の真っ只中、景気とは無関係に富裕層がお金をおとしやすい場所として地域行政も花街の賑わいに期待し前のめりだったようだ。今里や松島のような新しい花街もこの時期に開設されている。

堀江盆唄は引き合いが多く、他の花街や、町内の地蔵盆でも使えるようなものとしてアレンジされた「地蔵盆唄」が生まれたのではないだろうかと推測する。
「地蔵盆唄」にはにさらにユニークな歌詞が足されて、隠語の意味はわからずとも地蔵盆の主役である子どもたちの笑いを誘う音楽に仕上がっている。

私が中高生の頃には、もっと子どもウケする「ドラえもん音頭」のような曲がスピーカーから流れるようになり「地蔵盆唄」や古典的な盆踊り唄は炭坑節か、河内音頭だけになってしまって、少子化が進んで地蔵盆の世話役をしていた大人たちも老いて引退して、代わりをするひともなく、地蔵盆自体行われなくなってしまった。酷暑の夏になってしまっては外で踊るのももう危険かもしれない。

「カンテキ割った、すり鉢割った」の歌詞の面白みを、後世に残してほしいのだけれど。

でも「鬼滅の刃」の遊郭編にも過剰反応してしまうような保護者らが教育上よろしくない言葉が歌詞が含まれていると苦情して、もうあかんかもな。

梅若梅朝さんが「堀江盆唄」から「地蔵盆唄」を連続で演奏、謡いをされる動画

「ひとり囃子」を考察する

ひとり囃子 – “祇園祭”より –
作詞:喜多條忠 作曲:平尾昌晃

四条通りの日盛りを長刀鉾が通ります
去年の夏に見た時はあなたと私は揃いの浴衣
はぐれちゃ嫌よと手をつなぎ
冷たいラムネを飲みました
あれからあなたは帰ってこない
今から思えばわがままで
強がりばかりの私でした
ごめんなさいねといいながら
祇園囃子と人波に押されて思わず泣きました

鉾の上から十字路に青い粽が散りました
去年の夏のお祭りはそれでももっと賑やかでした
八坂神社の石段さえあなたと歩けば多かった
あれからあなたは帰ってこない
今から思えばあの時に
生意気言ってた私の頬を
音立て殴って欲しかった
私ばかりか京都まで捨ててどこかへ行った人

昭和の古い歌謡曲で申し訳ないのだけれど、祇園祭の頃になると、子どもの頃に聴いたこの歌が必ず僕のアタマの中で流れる印象深い曲なのだ。

ここ10年余り、会員としてささやかながら大船鉾の支援もさせてもらうようになって、祇園祭についてもそれなりに詳しくなって、この歌の歌詞をあらためて読み直してみて思ったことを書いてみる。

一聴して、女性を捨てた男性が身勝手で悪いやつだなと思うかもしれない。
歌う女性の気持ちになれば自然なことだ。僕もずっとそう思っていた。

でも、祇園祭について知識がつくと、この歌詞の情景に疑問が湧く。

なんで、恋人とのデートに山鉾巡行なんか選んだのだろう?

山鉾巡行は昼間に行われ、四条通沿いに見物客が鈴なりになって山や鉾が進むのをじっと眺めている。

そんなところに揃いの浴衣で来ている二人。

祇園祭でデートするなら普通、常識的に考えて、夜の宵山じゃないのか?

二人のペースで山や鉾、屋台を彷徨いながら、二人の会話や時間を楽しむ。
揃いの浴衣だって、道行く人に自分たちが仲の良い恋人同士だってことを見せびらかすようにあるようなものだ。

山鉾巡行でひとところに立ち尽くして、みんな四条通のほうを見ていて、揃いの浴衣で汗だくになって何の意味があるのだろう。

だから、こう考察する。

男性は夜の宵山で、女性に求婚するつもりだった。
揃いの浴衣もそのつもりの準備だった。

男性は京都の人ではなかったのかも知れない。

「祇園祭に行こう」と誘ったら、普通は夜の宵山のデートに決まっている。

でも、女性は「山鉾巡行に行こう」と言い出した。

京都人の彼女は、男性に勇壮な山鉾巡行を見てもらおうと思った。
そのほうが男性は見てよかったと喜んでくれるだろうと思って気をきかせたつもりだった。

彼女は彼女なりに男性と山鉾巡行を見る時間を共有することが、今後の二人にとって大切な思い出になると思っていたかも知れない。

しかし、男性にしてみれば、巡行の喧騒のなか、ひとところにいて、他の人もその場にいて、求婚などできようはずがない。

この女性とは無理なんだと、失望した。

最後の日になる山鉾巡行に、せめてもの気持ちで、揃いの浴衣を着た。
それを最後に、女性の居る京都には足を運べなくなってしまった。

でも、そういう男性の機微に、女性は気づけていない。

とまあ、こういうふうに解釈した。
ひとり、深い歌だなあと悦に入っている。

【祇園祭・大船鉾】龍にまつわる大丸とのご縁・船鉾より大きいのか?

大船鉾の龍頭と大丸とのご縁

祇園祭・後祭の「大船鉾」は年替わりで船首の装飾が「大金幣」と「龍頭」と交互する。
これは鉾を保有する四条町が昔、北町と南町に分かれていて、年交代で鉾の船首を替えそれぞれが曳行していた歴史に由来する。

江戸・幕末の蛤御門の変の火災で大船鉾とともに焼失した「龍頭」は、東福寺駅から近い瀧尾神社の昇殿の天井にある龍の彫刻と同じ彫刻家 九山新太郎の手によるものだったらしく、創業の初代 下村彦右衛門以来、瀧尾神社に信仰があつかった大丸が仲介をされたようで、大丸は大船鉾の「寄り町(他所の町からの支援者)」だったそうである。

【公式】京都市指定有形文化財 瀧尾神社

平成の龍頭はこれにならって瀧尾神社の龍を模して新調され、近年は祇園祭の期間に大丸京都店のショーウィンドウには大船鉾の龍頭や瀧尾神社の龍の頭部分が飾られるのが恒例になっている。

2014年の本体復興以来、大船鉾は年ごとに懸装品の復元、新調、塗り、部品などを段階的に追加し、華やかなもとの姿に近づいていく、毎年飽きの来ない楽しみがある。

瀧尾神社の昇殿の天井に舞う「木彫り龍」も全長8mの圧巻の彫刻で、東福寺方面に行かれる機会があれば足を伸ばして見るだけの一見の価値あり。祇園祭期間は頭が大丸に貸し出されているので、その時期を避けて全身揃っている姿を是非見てほしい。

大船鉾は船鉾よりほんとに大きいのか

宵山の停泊中に大船鉾はもちろん、前祭の船鉾にも搭乗したことはあるけれど、”大”船鉾は船鉾より大きいのかは、同時に鉾建てされることはないし、体感ではよくわからない。

ただ船鉾の船首の「鷁(げき)」の彫刻に対して、大船鉾の龍頭や大金幣のサイズや重量を想像するとバランスをとるには大きくならざるを得ないような気がする。

調べてみたら、大船鉾の復元設計にたずさわられた方の話によると

大船鉾の軸組製作でも、船鉾の構造を踏襲することがワーキンググループで確認された。
船体の寸法決定では、四条町内に大切に守られてきた懸装品を上記の構造に当てはめた。
鉾の改修設計と同様、構造を化粧に合せる逆向きの作業を伴う。・・・・・・
全長は長くとも大船鉾の前懸後懸の幅は船鉾より狭い。
この点を根拠に、構造に無理のない範囲で細長のプロポーションを目指した。

(再生研理事 末川 協「大船鉾の復元設計」より)

やはり大船鉾は、船鉾より全長が長くて、そして船鉾よりスリムなのだそうだ。


大船鉾は復興時から菊水鉾から譲り受けて使っていた「たま(車輪のこと)」を新調し、現在は7尺(2.13m)の全山鉾で最大サイズになったので車高(船なので全高というべきか)も上がっている。

映画「鶴になる」地元・大阪 ミナミで一般上映

大阪のミナミの花街、南地に一軒残るお茶屋「たに川」で御披露目になった芸妓 千鶴さんの、見習い期間を追いかけたドキュメンタリー映画が、大阪・ミナミにある「シアターエミュ」で一般上映されることになった。

現在は千鶴さんは、上から二番目のお姉さん芸妓になり、依然として贔屓客やファンが多く、変わらず今後も注目の存在だ。

花街や芸妓・舞妓に関心があられるひとはもちろん、そうでないひとにも、広く世代を超えて鑑賞していただきたい作品になっている。

Theater Aimyou(シアターエミュ)@theateraimyou
【上映期間】2026年2月7日(土) ~ 2026年2月21日(土)
【上映料金】2,000円

https://theateraimyou.com/whats-on/#coming-soon

チケットの購入に関しては上映スケジュールが決まってから可能のようである
いまサイトにアクセスして購入ページが表示されない場合は後日アクセスしてほしい。

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映画「鶴になる」
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芸妓さんになりたい。

そう思った1ヶ月後、高校を辞め、京都へ。しかしすぐに世間はパンデミックに見舞われ、自身の体調も悪化。
夢を断念し、地元大阪で就職した。そんな彼女が再度、芸妓を目指すため「たに川」の門を叩く。
見習いから芸妓になるまでの知られざる道のりを描いた。

監督:島田拓空也
出演:千鶴・玉幸・いち鶴・まり鶴・谷川恵・花柳旭扇

公式Instagram:@tsuruninaru_0220

 

映画「鶴になる」 – 大阪・南地で芸妓をめざす女性の一年を追う

2023年11月27日、大阪のミナミの花街、南地に1軒残るお茶屋「たに川」で御披露目になった芸妓 千鶴さんの、見習い期間を追いかけたドキュメンタリー映画の制作がすすんでいる。

千鶴さんはすでに見習いのときから贔屓客やファンを多く集め、南地の期待の新星として注目を寄せている人気ぶりだ。

映画は国内、海外映画祭に出品を予定し、2024年2月からのクラウドファンディングで上映をめざす。
ご関心あられる方みなさんのご協力と上映されるあかつきのご鑑賞を是非お願いします。

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映画「鶴になる」
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芸妓さんになりたい。

そう思った1ヶ月後、高校を辞め、京都へ。しかしすぐに世間はパンデミックに見舞われ、自身の体調も悪化。
夢を断念し、地元大阪で就職した。そんな彼女が再度、芸妓を目指すため「たに川」の門を叩く。
見習いから芸妓になるまでの知られざる道のりを描いた。

監督:島田拓空也
出演:千鶴・玉幸・いち鶴・まり鶴・谷川恵・花柳旭扇

公式Instagram:@tsuruninaru_0220

 

 



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悲願のTHE GREAT KANSAI DERBY (関西対決 – 阪神vsオリックス)

阪神タイガースとオリックス・バファローズの関西のチームどうしの日本シリーズが実現した。
前回が1964年の阪神×南海で59年ぶりになる。

「関西シリーズ」とか「関西ダービー」とか「阪神なんば線シリーズ」とかいろんな名称で呼ばれる2023年の日本シリーズ。

阪神とオリックスでは「THE GREAT KANSAI DERBY」とすることに決めたようだ。

大阪環状線の、京セラドームの真反対になる界隈で過ごした子どもの頃は、パ・リーグに”在阪3球団”の南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズがあって、家から日生球場も大阪球場も近かったから、僕ら男児みんなの頭には阪神を含めたいずれかのチームの帽子があった。

前期後期にわけたリーグ戦でそれぞれ優勝を重ねていて、そのたびに系列の百貨店がセールをするので定例の祭のようになっていた。

セ・リーグとパ・リーグの垣根を越えて開催される春のオープン戦は僕らには公式戦より楽しかったかも知れない。
阪神ファンの僕には甲子園球場の公式戦では見ることのできないビジターユニフォームや三塁側での応援が楽しかった。

そして僕らの夢は阪神と在阪3球団それぞれとの日本シリーズ対決だった。

南海がパ・リーグで優勝を重ねていた頃は、讀賣巨人がV9時代で阪神はセ・リーグを勝ち抜けなかった。
阪急、近鉄の黄金時代は、セ・リーグは赤ヘルカープの黄金時代でまた阪神は勝ち抜けなかった。
阪神が1985年に優勝したときはパ・リーグは西武の黄金時代で、2003年と2014年はもう関西のチームではないホークスだった。

「在阪3球団」。

阪神ファンが道頓堀や大阪で騒ぐのを見て、兵庫県の球団なのにおかしいと憤慨される最近の若い世代の方々には理解し難いかもしれないが、本拠地球場は兵庫県にあっても、かつては阪神も阪急も球団本社が親会社の膝もとの大阪市内にあったので、「在阪」、本拠地は大阪と見なされるのが普通だった。
球場は大阪に本社のある鉄道会社の「沿線施設」で、みんなホームが大阪か兵庫かなどと考えることすらなかった。
「営業圏」という感覚が正しかったかもしれない。
だから個人的には「関西」と括るのも大きすぎる感じがしてちょっと違和感もある。

それは関西に限ったことではなく、球団が集中した首都圏でも同様で、本拠地を都道府県で強く意識するようになったのは、1994年に「ホーム」を強く意識した運営をするJリーグがスタートしてからである。

大阪市の東寄りに住む僕らは町工場か魚屋、八百屋、果物屋、菓子屋の子どもで、町工場といっても自宅の1階が仕事場で2階で生活していて、店をする家庭もそうだった。

バブル景気を迎えた頃には大手メーカーは下請け工場を海外に求め、町には大型のスーパーが出店が相次ぎ、僕らの家の商いは危うくなっていて、僕らは親から将来は家業は継がずに会社勤めするように口酸っぱく言われて育つ。

家業を継がないのなら実家にいる必要はないから就職し家庭をもつ頃にはみんなこの街からいなくなった。
工場だった家はなくなってマンションや住宅に変わり、商店街はシャッター通りになった。
奇しくも同じ頃、1988年に南海ホークスは買収され福岡に移転し、阪急ブレーブスはオリックスに買収され、その後神戸でオリックス・ブルーウェーブ になり、2004年に大阪近鉄バファローズを吸収合併、東北楽天ゴールデンイーグルスと分裂して、いまのオリックスバファローズになる。

もう会うこともない、街から出ていった”在阪3球団”のファンだった友だちはみんなそれぞれ、互いに夢見ていた”関西対決”の今年の日本シリーズをいったいいま何処でどんな思いで見ているだろう。

50年待った、とうとうかなった、本当に嬉しい。
阪神ファンなので、タイガースに是が非でも勝ってほしいけれど、いま格別に愉しい時間である。

できることなら、あの頃の小中の同級生たちと語り合って、それぞれを応援したいのだけれど。


追記。
記念乗車券買ってきた。
世が世なら阪神と阪急と近鉄3社がいっしょの記念乗車券。
なんかちょっとおもしろい。

(2023.11.01 改訂)

【祇園祭】姫路から京都へ。”祇園神”の神輿行幸をたどる 2023

京都の八坂神社は播磨・姫路にある廣峯神社の分祀だという説がある。
真偽は定かではない。
というのもこの説は鎌倉時代に現れた吉田神道が流布する以前には見られないからだそうだ。

この説に呼応するように、神戸、大阪、京都には貞観11年(869年)、御分霊の神輿が京都に送られる道程の停泊を創祀とする祇園神社、八坂神社が点在している。

貞観11年というと勘のよい方は祇園祭の始まりとされる「御霊会」が行われた年であることに気づく方もおられるだろう。
説を肯定するならば、おそらく廣峯からの京都に神様が迎えられたことと一連の出来事であったと考えるのが妥当に思える。

文献やネットには学者や一般人の歴史家による考察がいくつかあるが
実際に写真などを伴って現地を紹介しているものが皆目無いので、これに関心をもってしまった私が、現地におもむいて、令和5年(2023年)の現在を確かめることにした。

起点の廣峯神社から記述するが、訪問の順番は道程の順ではないので断っておく。

廣峯神社
(2023/5/2 訪問)

JR播但線 野里からタクシーで15分ほど。
徒歩で登れば1時間はかかる、なかなか険しい山の上にある。

この山は白幣(はくへい)山と呼ばれ、いまから2,000年以上前から山上に「スサノオ」と「イソタケル」が祀られ、古代、神功皇后が朝鮮半島に「三韓征伐」に出兵する際に戦勝祈願を行い、勝利して凱旋するときも戦勝報告と感謝の大祭をされたという。

この話はまさに祇園祭の前祭の「船鉾」、後祭の「大船鉾」、(他にも占出山があるが)を想起させ、縁を感ぜざるを得ない。
廣峯におけるスサノオと神功皇后の関係を知っているからこそ祇園祭に反映させたのではないかと思わせる。

現在の鎮座地については、奈良時代に遣唐使の吉備真備が日本に戻る途で淡路島近辺で神託(おつげ)をうけて、その報告をうけた聖武天皇の勅命で、社殿が設けられたということだそうである。

現在の社殿は室町から江戸につくられらもので、武家の時代のものによくみられる、木肌がそのままの荒い雰囲気がある。


黒田氏が神社に奉仕する「社家」のひとつであったことで、近年、NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」の頃に当地に関心が集まった縁で、令和になって「官兵衛神社」のような真新しい社殿も建立されている。

社殿の裏奥、「白弊山」の奥宮には本来の御神体である磐座(いわくら)がある。
神功皇后が祈願なさったのならこの場所であろう。

ここまで詳しくは書いてこなかったが、ここから京都に御分霊がはこばれた神は「牛頭天王(ごずてんおう)」で「スサノオ」と同一とみなされている。牛頭天王自体はよくわからない神様で、「祇園」の由来になっている祇樹給孤独園、日本では通称「祇園精舎」という古代仏教の布教施設に祀られていた守護神と言われているが、インドにも中国にも牛頭天王にまつわる話自体無いそうで、むしろ韓国にいくつか牛頭山と称される山や島があり、それぞれ地のその山や島自体への信仰と何か関係があるようだ。
「スサノオ」は日本書紀に「新羅(古代朝鮮半島にあった地域、国)の”ソシモリ”」に降臨したとあり、ソシモリはハングルで漢字をあてると「牛頭」または「牛首」となるらしい。

古事記や日本書紀という”大王家(皇室)肯定”の国史編纂にあたって、渡来人の知恵を借り、近隣諸国の歴史や伝説を参考にしたことやその後の神仏習合でごちゃごちゃにこの国の信仰対象として正当化されたものだろう。廣峯神社が山の上にあるのも朝鮮半島伝来で、牛頭天王は山の神で、山の上に祀られる必要があるからだろう。


貞観11年(旧暦)3月朔日(1日)、清和天皇により播磨国廣峯より牛頭天王を勧請する勅命が発せられる。

 

神戸平野 祇園神社
(2023/2/4 訪問)

JR神戸駅、神戸市営地下鉄大倉山駅近くから、有馬街道の山坂を北上すること2km。

境内からは神戸の港や市街を一望できるような山の中腹にある。鳥居をくぐって境内までの石段は結構長くて険しく、下りも手すりをもったほうがいいかもしれない。


姫路廣峯を出発した神輿の一行が廣峯神社と縁者であった徳城というお坊さんの導きで一泊した場所が地元の民の信仰を集め、当地が神社になったという。

神社の麓には「祇園町」という地名がいまも住所として残っているし、六差路の「六道の辻(りくどうのつじ)」があるのも京都の八坂神社、東山周辺を思わせるようだ。

平野は平清盛「福原京」をおいた地で、京都の平野神社の「平野」にあやかっているのだろうか?(不明)

姫路から神戸への道程、神輿は浜の方へは下りず、山伝いの道を有馬経由で来たのだろうか。
浜のほうへ出で東進してきたとしても、山の神なので山の方へ導く必要はあったのだろう。
あるいはこの地に疫病が蔓延していたなどの事情があり、神威をもってこれを払わんと立ち寄ったか。

 

難波八阪神社
(2023/2/12 訪問)

ネットなどで見受けられる文献や記事では、難波八阪神社も神輿の道程にあると書かれているが、神社界隈の人が語っているとだけあり、由緒書に記載もなく、”公式”といえるものが見当たらない。

調べたところ神戸平野から、大阪に至るまで、スサノオ神社はあるものの貞観11年の創祀をうたっている廣峯、祇園、八坂、スサノオ神社は見つけられなかった。

仮に難波八阪神社が神輿の道程にあったとすれば、陸路で神戸方面から来たとすれば京都へ向かうのにここに立ち寄ることはかなりの寄り道になる。
可能性としては、神戸阪神間で海路を使ったか、この界隈に疫病が蔓延していて神威をもってこれを払わんと立ち寄ったか。

追記:大正11年(1922年)刊行の「大阪府全誌」に”大阪市南区廣田町字神宮地”に在った八坂神社に播州廣峯山から遷座の途時、当地に駐座したとの社伝があるそうだ。この八坂神社は現在の当地に在る今宮戎神社に合祀されている。(2025/5/16 記)

廣峯から京都へ神輿が運ばれる以前から、廣峯神社、牛頭天王は疫病退散を願うひとの信仰を集めていたようで、神輿の行幸の前の時代にも各所に廣峯神社の分祀が存在しているし、以後の時代も八坂や祇園、スサノオなどの名前で神社が建立されている。

寝屋川の八坂神社は、神輿の行幸以前、飛鳥時代、大化の改新直前の643年に地元の水源で田畑も潤していた池が汚染し、それが原因の不衛生から病気が蔓延したが、地元の民が播磨・姫路の廣峯神社に足を運んで祈願したのち、状況が好転回復し、
その神徳への感謝を忘れないために池のほとりに御分霊を祀ったその場所が当地ということだそうである。
(2023/5/4 訪問)

 

 

高槻 原 八坂神社
(2023/4/2 訪問)

JR高槻駅北口から市営バスで15分、山の方へ北上して「神峰山口」で下車、10分。
「神峯山」というのは奈良から長岡京、平安京への遷都を行った桓武天皇の実父、光仁天皇の勅願で建立された神峯山寺があるからだということだろうが、神峯山寺のほうが神輿の行幸より70年以上前とはいえ、廣峯と神峯の語呂が近いのが個人的に気になる。

ここ3年コロナ禍で中止になっているが、毎年4月最初の日曜日に「春祭歩射神事」通称「大蛇祭」というものが行われる。
村の人たちがワラで作った大きな綱を大蛇に見立てて、それをかついで村内を練り歩き、最後は境内の的場に運び入れ、矢で射掛けるというもので、明治以前は境内を横切る川を挟んで引きちぎれるまで綱引きをしたとのこと。

神社の言い伝えでは地元に大蛇が現れ襲ったのを神社に祈願して退治できたという話であるが、スサノオのヤマタノオロチ退治に似ているし、村に疫病が蔓延したことを意味するのかもしれない。

いずれにしても高槻の市街地よりは山の手で、神戸平野と同様に山に祀る必要で当地になったのかもしれない。
大阪難波方面に向かわず六甲から北摂の山伝いに京都に向かっていた可能性は全くないとは思えないが、常識的に考え難い気がする。


元祇園梛神社
(2023/1/22 訪問)

神輿の行幸は平安京に到着し、四条大路をすすんで現在の坊城通と交わる「四条坊城」付近にあった梛(なぎ)の大きな林に住む源氏の一族の誰かがをお迎えする。
源氏とは皇族から姓を与えられ臣下に下った(臣籍降下)家柄に与えられた、皇室と親戚の姓のひとつであって、直接的に源頼朝に繋がっていく家の祖先であったかはこれだけではわからない。要するに元皇族が神輿を出迎えたということだ。

その梛(なぎ)の森で朱雀大路に一番近い林に祠を建て神輿から御霊をお祀りしたそうで、その場所が現在の境内地にあたる。
その後八坂の郷に向かって神輿が向かうとき、住民が花で飾った風流傘(ふりゅうがさ)を立てて、棒を振って見送ったのがいまの祇園祭の始まりだと由緒書にはある。
風流傘や棒振りは現在の祇園祭の綾傘鉾や四条傘鉾とその町衆の舞踊のイメージが近いのではないかと思われる。

ここまで書いてこなかったが、清和天皇の勅命によって京に行幸してきた神輿は八坂の地を目指していたわけではない。

牛頭天王は平安京ができたときから東の方角を護る東天王として東光寺というお寺に祀られていたのが焼失していて、清和天皇は牛頭天王が居られないから、この国に災いが多いのだと考えられて、新たに廣峯からお迎えすることを決められたのではないかと思う。

貞観11年、旧暦6月7日、清和天皇の勅命で御池通りの由来になっている通称「御池」の神泉苑で、当時の日本に在る”クニ”の数の66の鉾刀を立てて、”祇園神”の神輿を迎えて、「御霊会」を行われる。これが現在の「祇園祭」の発祥と語り継がれていることであるが、

この”祇園神”の神輿が八坂から来たという証拠があるわけでもなく、ここまでの行幸を見てくると、梛神社を出発した神輿の行幸がまっすぐ東に四条大路を突き進んで八坂の郷に向かったのではなく、坊城通りを北に向かって神泉苑に向かったと考えるのが妥当のように思われる。

神輿は八坂の郷に向かう目的ではなかったわけだし、平安京は(新)京極通までであって、その先は京とは違う場所であって当時が今のように四条大路が八坂神社に向かう参道でもなければメインストリートだったわけでもない。鴨川に四条大橋も架かってはいなかった。

京都に少し詳しいひとなら「東天王」と言われると気づかれるのではないかと思うが、今年うさぎ年で、正月が過ぎても今なお参拝客が絶えない、岡崎神社の別称だ。

 

東天王 岡崎神社
(2022/12/31 訪問)


岡崎神社は「北白川」の「瓜生山」にあった東光寺の境内にあった神社(境内社、鎮守社)であった。
神泉苑での御霊会のあと、この地に牛頭天王を京の東の守護として祀った。

瓜生山といえば、京都芸術大学(旧 京都造形芸術大学)のある場所だ。
祇園祭の頃、京都の人は、祇園の神紋がきゅうりの断面に似ているのできゅうりを食べないというが、牛頭天王自身はきゅうりを好んだとも言われ、瓜生山は胡瓜(きゅうり)好きの牛頭天王のおられる山という意味なのだそうだ。

東光寺自体は岡崎神社の向かい側の御旅所のところにあったようであるが今は失われて無い。
京都芸術大学のある瓜生山にも廣峯から行幸した牛頭天王が一時まつられ、八坂に遷されたという説があるのだが、この場所は岡崎からはかなり離れていて東光寺との関係がよくわからない。

ただ私たちは現在「北白川」と認識している場所が京都芸術大学の場所あたりと思っているが、歴史的にかつては岡崎付近も「北白川」であり、現在のような開けた場所のイメージではなく東山に連なる丘になった森のような場所であり、そもそも瓜生山自体、現在の場所を指していたかどうかも定かではなく、現在地を含めて南側の丘陵地の可能性があるようで、瓜生山すなわち岡崎であったということは否定できないように思う。

後年、東光寺は火災に遭うなどがあり、元慶年間(877-885)に八坂の郷に「祇園感神院」としてあらたに祀られ、現在の八坂神社に至る。

私は京都の芸舞妓に関心があるのだが、近年、歌舞練場が工事していた期間、瓜生山の京都芸術大学にある春秋座で八坂の祇園さんの氏子になる祇園甲部や宮川町の芸舞妓らがそれぞれ「都をどり」「京おどり」の公演をおこなっているが、この話となにか縁があるようでひとり悦に入っている。

今年はみんなとくに岡崎神社のうさぎの像に夢中になっているが、岡崎神社の御祭神をちゃんとご存知だろうか。
それで結構至近距離にある八坂神社と同じ祭神であることになにか疑問を感じた方はおられるだろうか。
ただ、現在の岡崎神社の由緒書には廣峯神社とも八坂神社とも双方の関係には一切触れていない。

 

西天王 須賀神社
(2023/5/4 訪問)

境内にある由緒の高札には記載がないのだが、社務所でいただいた由緒書には、貞観11年に廣峯神社からの分祀を創祀とする内容がある。

 


須賀神社の「西天王」は岡崎神社が岡崎の地に再建されて以来の位置関係で西側という意味のようだ。かつては平安神宮の位置にあったようで、京の西を守護する意味ではないようだ。
京に到着した御分霊を東天王として祀られるものとさらに分けられたかのように読み取れるが、何のために分けられたか、何のために平安神宮のあった場所に祀られたかはよくわからない。

あらためて、冒頭にも書いたが、京都の八坂神社は播磨・姫路にある廣峯神社の分祀だというのは定かではない。

八坂神社はその創祀は656年に朝鮮・高句麗から渡来した伊利之使主(いりしおみ)が新羅の牛頭山に祀られていたスサノオを当地に祀った説と、貞観18年に奈良にいた円如というお坊さんが当地に堂を建てた年に「天神(祇園神)」が降臨したという説のどちらかであるとしている。

ただ私が思うに、
伊利之が牛頭天王を祀っても、それはこの国のためではなく、あくまで八坂の郷に生きる秦氏の一族「八坂造(八坂氏)」のためだけの信仰対象であったに過ぎないという可能性はないだろうか。
神様が降臨する場所はひとには決められないが、平安京にとって八坂の地に祀られる、方位学的なものであったり道義的な理由がない。
あるいは貞観11年の時点で、八坂造が信仰していた牛頭天王もまた焼失などしていた可能性もあったのでは。
それならば、天皇は京やこの国のためには独自で牛頭天王を迎える必要があると考えるのももっともではないかと。

もっとも吉田神道が唱える説も創作、各神社の由緒も創作かも知れず、日本の神様自体ファンタジーだとそう言ってしまえばもう元も子もないけれど。

(2022/5/28 加筆訂正)