京都がそんなにええもんか(DEEP)

芸妓、舞妓や花街文化に興味があるので、先頃のツイッターの告発は気になっている。
これを機に京都と花街の歴史に向き合い、伝統に対する考え方をあらためることが必要と考える。

京都。

世の中には京都好きな人が多くて、そういう人たちが思い描く京都は、見目麗しい古都京都で、関西在住の人の目に映る京都とはかなり違っていることは以前にも書いた

東海道新幹線の開通により、遠くまで旅行することがたやすくなったことで、JRの前身の国鉄や各自治体が地域のPRに熱心に推し進めた。

とくに京都は女性ファッション誌がこぞって京都を特集したり、デュークエイセス、ザ・ベンチャーズ、渚ゆう子、チェリッシュ、小柳ルミ子、京都を題材とした歌謡曲がたくさんリリースされ、そして何よりカラーテレビの出現と普及で、お茶の間で見る京都の景観が多くの人を魅了したことが大きいのではないかと思う。

そして1970年代に京都を観光で訪れる男女比が逆転する。
こうして見目麗しい古都京都のイメージが出来上がったわけで、意外と最近のことである。

それ以前の京都といえば、主に「男性向けの観光地」で、昼は知的好奇心を満たす神社仏閣を巡り、なによりも夜を愉しむ場所だった。
東海道新幹線が開通して、大阪方面のビジネス出張があれば京都で降りて歓楽街に寄って帰る男性も少なくなかったようだ。

それは京都に限ったことではなく旅行自体も男性主体で温泉地にも芸者に始まって歓楽街が隣接するところは少なくない。

そんな時代を当時の「サラリーマン」だった男性ならみんなご存知のはずだけれど、ご健在でも90歳を超える世代だから、時とともに失われていくイメージなのだろう。

平成生まれとなると信じられないかもしれないが、昭和のアラフィフ以上の世代なら、20歳になったり、社会人になった記念に「筆おろし」などといって、男子が歓楽街で童貞を捨てるような儀式のようなことがあって、僕も儀式の対象にはならなかったが、友だちの機会のカンパに参加させられたことはある。

歓楽街で男性が遊ぶことは、女性とっては彼氏や旦那がそうであれば浮気心でしかないし、浪費であり、理解しがたいことだ。
女性の社会的地位が上がって、男性側の趣向にも変化があって、近年はおもてだって話題にすらならなくなったが、今も少なくはなったが無くなったわけではないし、昭和の頃はそういう街の数も規模も大きければ、当たり前に存在していた。

あえて言うなら、今より性に寛容な時代だった。

その「歓楽街」に京都の花街も当然含まれている。

花街。

当然ながら、たいてい大きな歓楽街のもとは廓(くるわ=遊郭)である。
通念上、現在、遊郭から”色事”を廃した街が「花街」ということになっている。

“色事”を廃する。

太平洋戦争後、それまで日本が公認で売春を認めていたことに1946年、GHQが廃止を指令し、それによる売春防止法の施行(1958年)以降、娼妓(「遊女」ともいう。娼婦、売春婦の古い呼称)が居なくなって、芸妓(芸者)、舞妓だけになったという意味だ。

遊郭は、娼妓を廃して「花街」になるところ、そもそも娼妓が中心になっているところは、遊郭ごと無くすか「花街」への転換が行われる。
主に後者にはその転換への猶予期間が与えられ、「赤線」地区と呼ばれ、半ば公認で売春が継続する。

京都でいうと、娼妓中心であった祇園乙部(赤線廃止にあわせて「祇園東」に)や宮川町は赤線の時期を経て「花街」になる。
赤線廃止後もすぐしばらくは表向きに芸妓のいるお茶屋や置屋を装って闇の売春営業を警察に摘発されることもあったようだ。

遊郭ごと無くすといっても多くは歓楽街、風俗街になるが、嶋原遊郭は赤線の頃までは夜は多くの男性客で賑わっていたが、赤線廃止後に「花街」になったものの、遊女(娼妓)の町から遊女がいなくなって、太夫こそいるが現在は花街としても全く形骸化している。
(追記:嶋原には花魁はいなかったと豪語する方々もおらえるが、戦後すぐに嶋原の揚屋 角屋で「おいらん餅」を花魁らがこねて配る行事の様子が写真が残っている。)

遊郭が公認だったのは明治維新後、国も全国どの地方の自治体も、慢性的な財政難で、遊郭は自治体とってほど大きな税収源であったことにある。
とくに京都においては、世界恐慌の時期も府外から客を呼んでブレることなく収益を上げ、京都市においても、京都府においても、税収がどの産業よりも多かった時期すらあったらしい。

戦後は、任天堂や島津製作所、京セラ、ワコールなど全国的世界的有名企業もあるが、当初は着物などに関する繊維産業が中心で、需要の減少から衰退を余儀なくされるが、花街がそれらの一大消費先であることは現在も変わらない。

芸舞妓や花街はそもそも京都だけの文化ではないが、他の地方では衰退しても、京都だけはこれを大事にしているのはそういう歴史的関係があるからかもしれない。

赤線廃止も東海道新幹線の開通も偶然のタイミングではなく、日本が変わっていく同じ時代の流れにあったと思うが、京都は1960年代以前のイメージの大転換が図られるなかで、併せて花街のイメージもまた美しく置き換えられ、舞妓といえば京都といわれるまでになる。

ゆえに京都の自治体は花街を無碍にできないし、強く出られない、ということがあるかもしれん。

伝統。

近年「伝統」という言葉が冠せられたものに価値を感じたり、心躍らせる人も多い気がする。
個人的な印象だがとくに京都好きを標榜する人に「伝統」に心酔している人が多い気がしている。

この言葉自体は中国の漢の時代の書物にもあるらしいが、日本で頻繁に、一般に使われるようになったのは昭和からのようだ。

日本の伝統と呼ばれるものは、調べてみるとほとんどが明治になってからのもので、

たとえば、神社にお参りするときは二礼二拍手一礼などの約束事を行うけれど、そもそも明治に神仏分離令が出る以前は神仏習合で、神官ならともかく庶民に神社にお参りの仕方にルールがあったとは思えないし、

皇室行事も昭和やそれ以前のように行うべきだという話もあったが、そもそも歴代天皇は仏門に帰依したかたもおられるし、神式で厳格に行うことのこだわりには疑問もある。

初詣も鉄道会社の集客ではじまっている。

京都の花街もその始まりこそ江戸時代以前にさかのぼるかもしれないが、現在われわれが目にする町の様子や、舞妓の身なりやらは明治時代に整ったもので、花街の営業許可は全国でほぼ同じ時期に下されている。

平成以降生まれには100年を超えればすごく歴史を感じるかもしれないが、昭和世代には自分の曽祖父が明治生まれも普通なので、明治はそう遠い昔とも思えない。

歴史好きは伝統に惹かれやすいようで、僕もしかりで、ずっと混同していたが歴史と伝統は決して同じ分類のものではない。

僕はちょうどバブルの頃にトラッド・ファッションに凝っていて、そのせいでアパレルに就職し、その分野に詳しくあることを求められた時期がある。
トラッドとはTraditional、日本語で「伝統的」と訳される言葉からきたものあるが、不易流行を指していると学んだ。

ふえき-りゅうこう【不易流行】
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。
また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。

 

伝統も、変わりにくい”流行”の一つでしかない。

日本でいう伝統の多くは、欧米化や機械化、エレクトロニクスなどによる合理化や現代における常識や生活習慣において「時代に合わなくなった」ものをあえて残すための口実になっていて、そういうものに多分に日本らしさみたいなものを感じたりして、魅了される一般の方すらおられるが、結局はこれに関わる人たちの自己防衛になっているように思う。
伝統を語らねば無くなってしまう。

さらにそれ自体を一切変えることを頑なに望まない傾向もあって、優れた本質を伝えていくという本当の意味からズレている。
故意なのか、思考停止しているのか、不都合なものもベールにかけて、不可侵にして逃げていることにもなっているかもしれない。

私たちも、伝統を冠するものを疑うことなく無条件に信奉するのではなく、伝えて残すべきものなのかを確認し見定める観点が必要だ。
伝統はそもそも”流行”なのだから。

歴史は起こってしまった過去のことで変えられない。
何事も過去にあったことに由来して今の事情があるので、それを踏まえないで現状を今の価値観や基準で非難することは、若い世代の方に多いようだが、いい大人のすることではない。
しかし良い過去も悪い過去も認めて、この先の未来をどう変えていくかを考えなければならない。

伝統と呼ばれるものもまた、どうあるべきかを考える。
伝統を不都合を隠すベールにして、弱者に被害が出るようなことなどあり得ないことだ。

イメージだけでなく、名実ともに魅力的な京都となり、花街となることを願う。

”芸妓の街”としての今里新地の歴史

「今里新地」を検索すると、”場末な色街”として興味本位な情報しか出てこない。

近隣住民としては身近な場所に他の土地の、この街をよく知りもしない人たちのそういう奇異なものを見る目線しか集まらないのはあまり気持ちのよいものではない。
でもその情報の内容もかなり偏見に満ちたものもあるが、否定できないものもあるのもまた事実。

しかし今里新地は当然、当初から”場末な色街”のような場所だったわけではない。

そこで私は誰も書いていない今里新地ができた頃の華やかな当初のすがたを書いておこうと思いたった。

大阪五大新地の一つに数えられた今里新地。

京都の舞妓、芸妓から発展的に花街への関心をもっている人や戦前の日本に関心のある人に応えるような、また近隣の方やこの街を知っている方にとってはこれまでとは少し見方が変わる「今里新地」の検索結果になればよいと思っている。


昭和5(1930)年、いまの近鉄である大軌電車が沿線開発の一貫と都市部拡大が進むことによる大阪市内の遊廓整理の流れで、所有していた現在の今里駅南側の広大な所有地に大阪府の営業認可を得て、子会社の今里土地株式会社によって「芸妓居住指定地」とし、歓楽街の「今里新地」を誕生させる。

今里新地組合編纂の「今里新地十年史」によると「芸妓居住指定地」というのは、体を売るのが仕事である娼妓がいる「遊廓」ではない、芸事を売る芸妓の街とある。
現在、京都の花街では「はなまち」という読み方は娼妓がいるイメージがあるので「かがい」という呼称で統一し、TVやメディアでもそう読まれているが「芸妓居住指定地」がその「かがい」と同じ意味である。
昔の今里新地という場所は今の私たちが見ている祇園や京都の花街のような雰囲気であったと想像できる。

事実、今里新地は大阪の売春目的のカフェバーの乱立や私娼の横行に対する風紀を正そうとする機運のなかで誕生している。
(ただ、芸妓が客と交渉をもつことを禁じる規約のようなものはなく、”遊び”目的の「転び」という芸妓もいて、貸座敷の宿泊利用も正式に認められていたことが、やがて戦後のこの街の本質になってしまうのだが…。)

「今里新地十年史」に掲載された地図によると、その広さについては現在地元の方々も周知している、今里駅から少し離れた新今里公園の南側、生野区新今里3丁目区域の一区画だけではなく、駅の目前の「新今里」を冠する町名地域ほぼ全体が「今里新地」で、新今里公園(当時は今里新地公園)も今里新地のど真ん中につくられたもので、芸妓や関係者の自宅や生活する上のお店や施設などもあったとはいえ、とてつもなく大きな花街、歓楽街であったことは間違いないだろう。

街区のかたちが芸妓の舞扇を思わせる”末広がり”で縁起がよいと謳われたようである。

新地が開業された年の、新しい木造の家屋がどんどん建てられていく街の様子を当時の新聞も書いている。

大阪朝日新聞 1930.6.1 (昭和5)

「東大阪の新歓楽地帯今里土地の発展振り – レコード破りの素晴らしい売行き」

大軌沿線片江に下車すればその南方の地域に展開されている情景には誰もが一驚を喫するであろう、即ち木の香新しい粋な作りの家並が揃い、尚処女地をグングン開拓して其処に鑿の音も景気よく建て増され新興の意気の漲っている素晴らしさで、此処許りは不景気知らずの別世界、この新市街こそ東大阪の新歓楽境として己に日夜絃歌の声を絶たない今里新地である。

この地域は今里土地株式会社の経営で所有地は約八万坪、大阪から巽の方角に当ることも喜ばれているがその上大軌上六から僅に四分という交通至便の強味がある。

同地域が指定地として認可されて昨年十二月一部家屋の建築が竣成すると同時に各方面から料理屋、芸妓置屋、飲食店、その他各種営業者は簇出して、その初め僅に十名の芸妓で開業した今里新地はその後数月を経たない現在に於ては既に料亭四十余軒、芸妓置屋十軒、飲食店その他数十軒に及び芸妓数は百名を超ゆるというレコード破りの発展を見日を遂うて殷賑を極めている、この地区には、気の利いた三千坪の公園を配し、数奇を凝らした大浴場も近く完成せんとしている。

世を挙げて不況の声を聞くとき各方面の人気は一斉にこの今里新地に集中して土地建物の希望は日を逐うて顕われ、現在六百余名の賃借又は買受希望者が殺到している盛況であるから、本年中には戸数三百戸、芸妓数二百名を突破することは必然であるとされている。

同地域は目下区劃整理中でその工事を急いでいるから、そのの完成の暁は区劃整然たる美わしい市街を現出すると共に将来市電は同地域の西方に接近して開通の予定であり、又大軌の停留所はこの地域を挟んで東西に新設される計画で交通に於ても又多分に恵まれ、その有望なる将来を如実に物語っている。

同地の地価は一等地で坪百二十円乃至百四十円という廉価であるが至極便利な同社の年賦売買に就て記せば 土地買受代金は即金の外は十ヶ年以内の月賦払で一割以上の内金を納め、土地代の金利は七分である。
右の土地に家屋を建築して土地と共に年賦払とすることが出来る。建築代は二割以上の内金を納め、金利は年一割である。
右の如く十ヶ年間家賃にも足らない月賦金を支払いさえすれば何時の間にかその土地は自分の物となり家主となる楽しみがある、この地域を商業地、住宅地、遊楽地、興行地、公園等に区分して夫々相談に応じている。
詳細は大軌線今里片江停留場下車南、今里土地株式会社(電天一一五四・二三六一)へ照会せられたい。(写真は経営地の一部)

[写真あり 省略]

(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 土地(7-137)から引用)

 

大軌(現在の近鉄)今里駅は今里新地の玄関となった。
「今里片江」だった駅名が新地開業に併せて、昭和4年に改名されている。
駅は新地の中央でなく東端に位置しているので、反対の新地の西の端、今里筋と交わるところにもう一つ、今里新地の玄関になる駅をつくって東西から新地への旅客誘導の計画があったようだ。

最盛期に2,000人を超える芸妓が今里新地に所属していたと資料にあるので、町中を夜は白塗りで島田髷の芸妓たちが闊歩していたのはもちろん、昼間も町にはそこここで三味線の調べが鳴り響き、舞や音曲、お茶やお花の稽古に行き帰りする和服姿の女性たちが見受けられるような独特な雰囲気のある街であっただろう。
ただ現在よりは着物姿の一般女性も多かっただろうから、いま祇園界隈を歩いて感じるほどの前時代へのタイムスリップしたような感覚をおぼえることはなかっただろう。
新地の街区は料亭やお茶屋、花街関係者、その生活を支える商売をする人たち、一般市民の家族で2,000世帯、2万人ほどの人口に達したそうである。

よく大阪の花街である南地も最盛期に2,000人ほどの芸妓が居て祇園より遥かに多かったと関係者が話すのを聞くが、おそらくは同時期に今里新地は同規模かそれ以上の規模を誇っていたのではないかと思われる。

その昔は大阪市内から夜の暗い田舎道を連なってハイヤーがこうこうとヘッドライトで照らしながら闇に光って浮かぶ今里の不夜城を目指して来たのだそうである。

今里新地が開設された頃は、その周辺はまだ田んぼが果てなく続くような平坦な何にもないところで、新地が現在の「今里」の基盤になっていく。

現在「今里」という街は近鉄奈良線の高架を境に北は東成区、南は生野区になっていて、今里新地は生野区がわにあり、東成区がわは今里新地とは無縁の街づくりがなされてきたように今の地域の人たちは思っているかもしれないが、新今里の真北に隣接する東成区大今里南1~3丁目には2階の窓が丸窓だったり、窓の欄干に特異な意匠があるような、もとは花街の建物だったのでなはいか思わせる古い家屋が今はわずかではあるが見受けられる。
そもそも生野区は昭和18年に東成区から分区しているので、新地の華やかし頃に地域の市民は同じ街だと思っていただろう。

じつは私の生家だった東成区内の建物も今は無いが、もとは盆屋(ぼんや、待合ともいう)の建物だったころを最近知った。(断っておくが私と私の家族はその盆屋が家業だったのではない。住居として建物を買い受けただけである。)
盆屋は花街や遊郭といわれる場所にあるものだが、詳しいことはここでは控える。ご興味あられるかたはご自分で調べていただきたい。

またこの地域には吉本や松竹の芸人や落語家が居住したことも知られている。
芸事で食べている人たちを好意的に受け入れる風土は今里新地に連なる場所ゆえだったのではないか。おそらくは新地からお呼びがかかって座敷に出向いていたであろうことも想像に難くない。

今里新地の芸妓らも落語家たちの下宿であった「楽語荘」があった場所から歩いてすぐの七福橋の渡り初め式に花を添えている。


現在も、すでに下町になった新今里の界隈には町にはどうも似つかわしくないような、大きな和菓子屋さんや昔商売をされていただろう着物の洗濯や着物に関する商いの看板、現存する料亭があり、公園の北側にある「玉家駐車場」の「玉家」は今里新地の組合の最初の総会が行われた大きなお茶屋の跡である。

町工場やマンションが多いのはもともとお茶屋や料亭などの大きな建物の跡地があったからだ。
いまも、ただ駅前界隈というには広範囲に店舗も多い。(現在は廃業しているものも含めて)

松福堂には「ふるべの鈴」という、おおぶりなお菓子がある。
お座敷遊びをした客にお茶屋がおもたせ(土産)にしたものだ。「いしきりさん(石切劔箭神社)」の拝殿の鈴をイメージしたものらしい。
往時の大軌電車の大阪府内の2大名所は今里新地といしきりさんだった。

たこ焼きの元祖として知られている会津屋はこの今里新地で創業している。
東京で料理の修行を終えた会津坂下町出身の遠藤留吉氏は昭和8年に「会津屋」の屋号で、醤油を下味にした水溶き小麦粉にネギやこんにゃくや牛すじ肉などを入れて焼く「ラヂオ焼き」の屋台を営んでいたが、新地の客の明石のタコが入った「玉子焼き」の話を聞いて具をタコに変えて、「たこ焼き」と名付けて売り始めた。
じつはたこ焼き発祥の地は今里新地なのである。

ちなみに小説家の東野圭吾氏はこの界隈で生まれ育っておられ、「浪花少年探偵団」に出てくる「ポンポン」という洋菓子店のモデルは「洋菓子ケンテル」である。
ケンテルがこの地に開業したのは昭和42(1967)年のことであるが、当時もおそらく街には芸妓の姿はちらほらはあったのではないかと思われる。


今里新地演舞場は今里新地公園(現 新今里公園)の南正面、現在の大阪信用金庫今里支店の場所にあり、現在も京都の花街でも行われているような、踊りや三味線などの稽古の成果を披露する「温習会」が毎年6月に催されていた。
しかしながら今里新地では一般市民を集客する踊りの舞台よりも公園での屋外イベントのほうが注目され精力的に行われていたようだ。


新今里公園は現在もたくさんのサクラの木があり、春は地元ではなかなかの花見の名所なのだが、それもそのはずで往時はこの場所で「今里新地の夜桜」と銘打った、芸妓総出での一大イベントが毎年行われ、パンフレットなども配布され大きな集客があったようだ。
その目的で植樹された桜の名残である。


この公園の南半分は中学校の校庭くらいの広さのグラウンドになっていて、近隣の市民が思い思いに球技や運動を楽しんでいるが、この場所も公園開園時からも芸妓たちの健康のための運動場だったようで、2,000人の芸妓らを一同に集めてラジオ体操や贔屓客を観客に招いた運動会なども行われていた。
また毎年夏には大きな舞台を組んで、その上に建てた櫓の周りを芸妓らが輪になって踊り、ビヤガーデンなどもあった「盆踊り」は夏の名物行事だったようで、黒山の人だかりの来場があった光景の写真が十年史に掲載されている。

現在も公園の東端にある末廣稲荷神社は「今里稲荷社」として、今里新地開設の昭和5年に、新地の繁栄を祈願して今里土地株式会社によって伏見稲荷神社から勧請された小祠である。いつから末廣の名前になったかは調べてはいないが、先述のように、街区のかたちに由来しているのではないだろうか。芸妓の舞扇にちなんだか、いずれにしても、花街らしい名前である。
十年史の小さな写真から推測するに、おそらく現在の鳥居の正面に連なる公園の通路部分も参道があったのではないかと思われ、鳥居ももう少し社殿寄りに現在のものより大きなものがあったようだ。
現在は東側ににふくれたアンバランスで植樹も珍妙な境内だが、もともとはやはり左右対称でもう少し大きく、神社らしい佇まいだったようで、毎年稲荷祭や大胡麻神事なども関係者らにより盛大に行われ、平素も参詣者の絶えない神社だったらしい。
花街にお稲荷さんはつきものであるが、芸妓たちがめいめいに夜は白塗りで仕事の前に、昼間は稽古の行き帰りに参詣し、おしろいの匂いのする神社であったかもしれない。
いまでこそ近隣の市民のために自治体が管理する公園であるがつくられた意図は他の公園とは全く違っていて、新地のど真ん中に位置し南向かいの演舞場とともに今里新地のランドマークとしての位置づけであったように想像される。


南地にはかつて舞妓がいたが今里新地にはいなかったようだ。

妓丁(ぎてい、芸妓の丁稚(でっち)みたいな意味か)という芸妓見習いがいて、その管理が雇用先なのか組合なのかの議論があったり、妓丁がストライキもしたようなので、舞妓のような客前に特別な容姿で出ていた写真などは見当たらないがお座敷の仕事に欠かせない役割もしていたように思われる。


この巨大な花街だった今里新地であるが、開設からまもなく日本は戦争に突入し、新地の芸妓たちは軍隊慰問や報国活動、勤労奉仕に追われていくことになる。

そして開設から15年の昭和20年6月15日の空襲で今里新地の北半分は焼け野原になってしまい、北半分はほとんど町工場や宅地化し、戦火を免れた生野区新今里3丁目の区域だけが「今里新地」として営業され、現在に至る。

戦後、各地の花街はバーやキャバレーなど、サラリーマンらに向けた風俗営業への業態の変容がすすむとともに、「今里新地」はGHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間は半ば公認で売春が行われる「赤線(あかせん)地域」になり、その後も、法に触れない理屈で営業を続ける店が残り、平成には働き手に外国人女性が見られるようになり、

そして、やがて今里新地の現在周知されている色街のイメージの街区につながっていく…

華やかな芸妓の街としての今里新地は大玉の打ち上げ花火のように、大きく派手にあざやかに輝いて、すっと素早く消えて終わってしまったと言えよう。


ここまで読んでくださった人は他のネットの情報とは違う今里新地の印象をもっていただけただろうか。

私自身も子どもの頃は「今里新地」に行ってはいけないと親に言われていた。
それが「子供が行くと危ない場所」という意味ではなく「子供が来る場所ではない」という意味だったことに気づくのはそこそこ大人になってからだった。

京都の舞妓に魅かれて、花街文化に触れ、花街の歴史に触れると、身を売って稼ぐ娼妓がいないのが「花街(かがい)」と言われても、時代をさかのぼれば「遊廓(遊郭)」と区別のしようがないものであったことも、時代を下れば現在の風俗街につながっていくこともまた否定しようがないこともわかってしまう。
それが娘が憧れる舞妓にさせたがらない家族の基本的な花街の印象のひとつになっていることは否めない。

この街の世間の印象を否定するまではできないが、しかし、花街文化を肯定的に興味や関心をもってくださる方々には魅力的な、祇園と同じような風景がかつてここにあった事実に、好意的な目をこの界隈に向けてくれる人、少し見直してもらえる人もでてくることを期待している。
近隣やこの地を知っている方々には街への思いや界隈を歩く思いが少し変わればうれしく思う。

しかし、この私の投稿を見てはじめて今里新地を知って期待を膨らませてこの地に足を運んでもらうことにはさすがに躊躇がある。美味しいお店もあるが観光気分でうろつく街ではないので理解しておいていただきたい。
風俗の店が集まる場所は風俗街以外の何ものでもないわけだし。

今回は、今里新地の往時をしのばせる、一番参考にした「今里新地十年史」という本からの写真の引用などは権利の関係でできなかった。
国立国会図書館のデジタルライブラリーから「今里新地十年史」の現物の全ページを見ることができるので、もっと知りたい、関心を深めたい方はご覧いただきたい。

東京のYEBISUな神社

つい最近、ホームページのお仕事でクライアントの賃貸物件が大阪の恵美須町にあるのに、EBISUと名前につけてるのを見て、間違ってはないけど詐欺っぽいなあと思ったことがある。

そういえば、知ってる関西の人が東京に転居されて1月10日だから、恵比寿の恵比寿神社に行ってみたけど、何もやってなかったと言っていた。

東京の恵比寿という場所はもとは下渋谷村というところで、明治22年にヱビスビールの工場ができて、ビールの出荷用にできた貨物駅も「恵比寿停車場」と名付けられ、この界隈は工場で働く人の生活の場ともなり、昭和3年に村は恵比寿という地名になったらしい。

恵比寿には2つの「恵比寿神社」があって、ひとつはヱビスビールを製造する日本麦酒醸造会社、いまのサッポロビールが明治27年に工場の敷地内に自社の商売繁盛を祈念して、兵庫・西宮神社から勧請されたものが、工場跡に恵比寿ガーデンプレイスができたのを機に一般に開放されたもので、そういうわけだから、社務所などもない。

もう一つの恵比寿神社はもとは「天津神社」と称されていた神社に、戦後の区画整理に併せた社殿新築を機に、事代主神を合祀して、以来「恵比寿神社」と改称されたそうだ。

そういうわけで商売繁盛のえびす信仰と縁はあるものの、祭礼や風習まで引き継ぐほどのものではなかったということである。
サッポロビールが勧請したのがヒルコ神で、旧天津神社のほうが事代主神を勧請していて、えびすさまと呼ばれるの二神をそれぞれに祀っているところが偶然なのか、旧天津神社のほうがそうしたのか、なかなか興味深い。

余談であるが「エビオス錠」という薬の名前がエビスっぽいはもともと発売元が日本麦酒醸造会社で、ヱビスにギリシャ語で「命の素」という意味のBIOSを合体させて命名したからだそうである。

令和のトラッド

総じて令和のいま、男性には着るものやファッションにこだわる人は少ない。
かくいう自分も同様である。
身近な男性がファッションについて関心をもっていれば世の中は相当景気がよい状況だと言っておそらく過言ではない。
自分の場合、この10年くらいのあいだにユニクロのものの割合も相当高くなった。
当初のような廉価ものの印象でユニクロを来ていて他の人から見下される感はもうないし、ヒートテックやらエアリズムやら機能性の面からみんながこぞって季節には着用するものすらある。

特段ファッションに関心がなくてもユニクロで買ってれば、身なりもそれなりにちゃんとする。
そういえばユニクロの当初は無地無柄の一色のトレーナーやら、とくに冬の衣類の定番ジャンルにしてしまったフリースを同じ色を棚一列に並べて、店の中を虹のような印象にしていたのがとても斬新で特徴的だったが、いつしかそれもやめていまは機能性をメインにするせいか商品の顔は”トラッド”が基本である。

トラッド。

50代以上の中高年にはバブルとともに若い頃の記憶にあるファッションスタイル。
バブルの街を歩く男性は、イカリ型のDCブランドのジャケットを来ているか、ブレザーにボタンダウンシャツにタータンチェックのパンツのトラッドスタイルで溢れていた。
男性はファッションに関心をもっているのが常識だったので、感性みたいなものがなくてもPOPEYEやホットドッグプレスという雑誌をマニュアルにして服を買い揃え来てるという感じだった。
恋愛もそういう雑誌の情報をマニュアルにしている有様だった。

かくいう自分も同様であった。
だから、いまのユニクロでの服選びは中高年男性には格別の安心をもってできるのかも知れない。
現在のファッション雑誌にはユニクロをおしゃれに着こなすためのラインナップがあるようで、多くの中高年世代が安心で買い求めてるものとは全然目線が違うのも確かなのだが。

本当に良いものには高価でも妥当な金額として買い求める。
奇をてらわず、シンプルで一流の素材と一流の仕事に価値を感じる。
本来のトラッドとはそういうもので、またそういう景気のよい世の中と、自分にまたなってほしい、なりたいものである。

ジョゼと虎と魚たち、2021年

今朝見たアニメ映画に触発されて、家に返って上映当時気になりながらも見逃した2003年の実写映画も見て、寝る前に原作も読み切ってしまった。

2003年の映画は人の持っている偽善や背徳感を生々しく晒す話でその後に明るい希望を思い描かせることなく終わる。撮影当時では池脇千鶴さんもジョゼに適役だったと思う。

登場人物たちはみんな大阪弁を話すし大阪を舞台想定しているのだろうが、そのスレた世界観を現すには2003年の大阪は洗練し過ぎていて多くの他の場所でロケされていてそのあたりには、大阪人の目線では凄く違和感がある。

原作はじつはごく短い短編で映画の下地になった生々しさはあるが、ジョゼは乳母車ではなく車椅子に座っているし話の滑り出しはアニメのほうに近い。
生々しいというか、問題に向き合うのってそういうもんとちゃうの、人って、というあっさりした読後感がある。
とくにこの先に希望を見出さないまま終わること自体は実写映画と同じだ。
映画みたいに恒夫が泣き崩れることはないが。

作者の田辺聖子さんは戦前戦後を生きた、ちょうど”おちょやん”の浪花千栄子さんとは別に、作品もご本人も大阪を代表する女性で、作品が人気された時期はインターネットも無いし、先生の作品が大阪以外のところで大阪の人となりを描いて伝えていた媒体でもあったと思う。
ただ女性に人気のあった田辺作品の本当の魅力は僕は女性ではないので、じつはわかってないかもしれない。
原作が描く時期はジョゼが阪神で村山がマウンドに上がっているのを幼少に見た体験を語っているので逆算して昭和50年代頃か。

実写映画も原作も即日手を出してしまったくらい今回のアニメ作品は正直良かった。
ジョゼにも恒夫にも未来の希望をもたせて清涼感で終わるというかなりの改変があり、いかにも今風なアニメになっていて、田辺先生が見られたらどうお思いになるか…ではあるが、現在の大阪の風景で登場人物といまの世代に同じ轍を踏ませるならこうなるかな、という感じ。

ロケ地の情景を忠実に描いて見せるのは「けいおん」より後のアニメのお約束になったが、個人的には8割9割、立ち寄ったことのある場所の光景だが、それを気にしてジョゼの家はどのあたりか考えるとわけがわからなくなるのでやめたほうがいい。
家の前が玉串川で愛染坂が近くにあって最寄駅が天下茶屋駅で車椅子で箕面市図書館に行けるとか、そんなとこあれへんから。

それでも、大阪と周辺の現在の光景に落とし込んで描いた”無理のなさ”がしっくりくるし、純粋に大阪を描くアニメとして、ちょっと流行ればいいなと思う。

六甲颪に颯爽と

今年前半のNHK朝ドラ「エール」のモデルが古関裕而さんであるが発表された時点でかなりの阪神タイガースファンの方々がおぉと反応したのではないか。

作詞 佐藤惣之助、作曲 古関裕而。

六甲おろし、正式には「阪神タイガースの歌」。

阪神が勝てば、いや何かうれしいことや祝い事があれば、自分を鼓舞したいことがあれば、かつては中村鋭一のレコードを、立川清登のカセットを、唐渡吉則のCDを引っぱり出して、現在はYouTubeで探して大音量で掛けた経験のある人は関西方面には少なからずいるだろう。

「大阪タイガースの歌」は昭和11年3月に甲子園ホテル(現在、武庫川女子大学甲子園会館として残る)で行われた、チーム激励会の中で初披露された。

選手たちは1-2月に甲子園で初練習を行い、加古川市の浜の宮公園で初めてのキャンプを行っているが、吹き荒ぶ”六甲颪”の寒風に負けじと練習に取組む当時の様子が歌詞から想像される。

古関さんが作曲したのは「”大阪”タイガースの歌」である。

阪神タイガースは昭和10年に株式会社大阪野球倶楽部」として阪神電車の出資で誕生し、通称は「大阪タイガース」であった。

米国のMLBのチームが親会社やスポンサーの名前ではなく地域や都市名を冠にして、地元に溶け込もうとした理想に当初のプロ野球は基づいていた。

Jリーグは初代チェアマンの川淵三郎さんの奮闘で、とくに讀賣の渡邉恒雄会長と激論の末にこの理想を今も貫いている。

この理想を砕いたのは太平洋戦争で、

東京ジャイアンツ(大東京野球倶楽部)も大阪タイガースも出資会社が親になって配下に吸収して経営することになったせいである。

そして戦時の敵性語禁止令で当時は「タイガース」や「タ軍」と呼ばれていたのを「阪神」に変えて、ユニホームの胸につけたことが、他の電鉄系球団との区別や対比でむしろ定着し、昭和36年に会社及び球団名を「阪神タイガース」に改称する。

これに併せて「大阪タイガースの歌」は「阪神タイガースの歌」に改称され、歌詞にも変更が加えられた。

サビが、オゥオゥオゥオゥなのは、大阪につなげるためのリフレインで、現在は阪神に置き換わったから、歌うときに一旦息継ぎが必要な不自然な歌になっている。

「阪神タイガースの歌」の通称「六甲おろし」を定着させたのは元ABC朝日放送アナウンサー 故 中村鋭一さん、ファンには鋭ちゃんと広く知られる方である。

関西の中高年以上の方には”えーちゃん”と言われて矢沢永吉より中村鋭一を思い浮かべる人は少なくない。

それほど高視聴率を誇った昭和40年代ラジオ番組「おはようパーソナリティー中村鋭一です」の番組中に、当時はプロ野球ファンには関心の無かった球団歌である「阪神タイガースの歌」を発掘して、阪神勝利の翌朝に「声高らかに六甲颪だー」と叫んで歌い出すさまが関西地区の朝の風物詩にすらなってしまったことに由来する。

結果、そもそも社歌のようなものであった球団歌がプロ野球の観戦に欠かせなくなった始まりである。

僕は音楽の良し悪しは全然わからないが中村鋭一さんの”六甲颪”は子どもの頃、家で朝に聴かされていたこともあって耳慣れしていることは多分にあると思うが、他の歌手とは違い、歌手でもない中村さんがアナウンサーとして鍛えられた声とはいえ素人のタイガース愛だけで歌いあげる歌に、みんなも併せて歌い易さを感じるし、朝のすがすがしさや、よし頑張るぞ、という気合い入れには向いている感じがして、近年はタイガースの応援どころか野球すら観ていないが、自分を鼓舞したいときには中村さんの曲の抑揚で口ずさむことがある。

中高年以上のタイガースファンの方々には圧倒的にこの曲が六甲おろしだろう。

球団が公式に球団歌としたのは、立川清登さんの「阪神タイガースの歌」である。

この曲は平成の始め頃まで甲子園球場でゲーム前のチーム練習でタイガースの番になったときに奏でられ、スタンドのタイガースファンにいよいよであると高揚させていた。

1985年頃から試合勝利後に球場でファンが合唱することが定着していくが当初はこの曲にみんなが併せていた。

立川さんのものを「正調」などと言うタイガースファンも多いし、これを聴くとやっぱりかつての甲子園球場の様子が思い浮かんでくる。

日本一になる勢いで、カセットに、のちにシングルCDになったが、その後立川さんサイドとの権利関係の問題とやらで、六甲おろしは歌唱無しのものなど球団としては公式に特定の歌手が歌うものを選定していない。

若いタイガースファンの方々にはこれらのどれでもない、唐渡吉則さんの歌こそが六甲おろしという印象をもたれている方も多いだろう。

あえて紹介しないのは、僕の信条というか、思い入れがないからだ。

近年の人気歌手たちの輪唱もしかり。

僕はかつては虎ブロガーだった頃もあるが先にも書いたが今はタイガースを応援するどころか野球すらほとんど観ていない。

甲子園球場も子どもや女性の方々への配慮が行き届いた結果、スタンドからヤジのひとつも出ず、湧き上がる”🎵がんばれがんばれ○○〜”というコールがこそばゆく不快で、勝負の場の臨場感というか、殺伐感が無くなって魅力を感じなくなってしまった。

1980年代頃からブンチャカ応援マーチが轟くようになって、すでに難しくはなっていたが、さらにそのように人畜無害化してしまった場所に村山vs長嶋や江夏vs王のような息をのむ一騎討ちを、それを固唾をのんでスタンドで見まもるという野球の大きな魅力がもう二度と期待できないと悟ったからである。
演ずるほうはもちろん見るほうにも多少の血の気は必要だからだ。

いまでも六甲おろしは歌うし、タイガース以外を応援する気はないし、「闘魂こめて」を聴くと無性にイライラして拳を固めてしまう僕は「昔のタイガースファン」ではあるけれど、現在のタイガースファンではない。

そういう事情で唐渡さん以降は書かないので、聴いてみたい気になったら、申し訳ないがご自身でググッてYouTubeやら、CDやらでお願いする。

カミサマと向き合う

コロナ禍自粛で仁-JIN- が再放送されていて、このドラマ自体は面白くて本放送でも欠かさず見ていたのだが、このドラマのキーワードである「神様は乗り越えられる試練しか与えない」が頻繁に登場し、登場人物の行動を左右していることに強く違和感を覚える。

というのは、このワードは新約聖書の「コリント人への手紙」にある一文で、幕末には外国人の出入りや滞在があったのでその影響をまったく否定はしないが、それでもまだ鎖国の日本の日本人になるほどそうだと受け入れられるとは考え難い。
日本の神社のカミサマはそういう存在ではないからだ。
古代や平安時代の頃のように畏怖を感じて祀られることはもうなくて、現在のように願掛けをしにお詣りさせていただくようになっていたとは思うが、人を試すための試練など与える存在という認識はさすがにないだろう。

このコロナ禍で京都の八坂神社などでは境内に夏に見る「茅の輪くぐり」の茅の輪が設けられたりしている。
八坂神社は昔から疫病退散を祈願する神社で祇園祭もその意味合いから行われている。
主祭神はスサノオノミコト。
“荒ぶる神様”で私たち人の目線では決して善行ばかりをなさった方ではない。
茅の輪や粽にまつわる話は過去に書いたとおり。
そもそもは暴走され、世の中に災いを起こされないようにおいさめするべく祀られ、氏子たちはご機嫌をとるために祇園祭を行なっているという、畏怖によって祀られたカミサマである。
だから、コロナから私たちをお救いください、というよりは、コロナを撒き散らすようなそのお怒りをお収めください、とお願いするのが正しいように思う。

さて、みなさんは家の近くの氏神や初詣に行く神社に祀られているカミサマが誰でどんなカミサマかご存知だろうか。
お寺のご本尊もしかりであるが。

自分のことを誰かにお願いにあがるときに名前も、素性も、その専門も知らないでお願いができますか?
古事記を読みなさいとまでは言わないまでも、参詣前にちょっとググってみよう。
親しみも湧くだろうし何をお願いすべきか確認ができる。
氏神さまの名前も素性も知らないなんて近所付き合いとしては失礼があるんじゃないか。

逆に、あなたも願い事の前に住所と名前の自己紹介くらいは先に伝えること。
相手も見知らぬ者にお願いされても聞き入れにくい。

そう考えていくと本当のところ小銭でいっぱいお願いしても向こう様も挨拶程度にしか応えてくれないのもまたしかりというわけだが…

京都のえべっさん

(訪問:2016年1月11日)

京都えびす神社は、縄手通(大和大路)を挟んで向かいにある建仁寺の守護として、栄西禅師が自身の故郷の岡山から迎えたえびすさまで、西宮や今宮のように海との縁から祀られたえびすさまとはちょっと事情が違うが、参詣者が笹をいただいて帰るとか、壁を叩いて耳の弱いえびすさまに願掛けの念押しする、十日戎詣りによく知られた習慣はここが発祥と考えるのが妥当な事情がある。(詳しくは過去記事を参照。)

とくに京都のえべっさんらしさを感じるのがのこり福の日で、近隣の祇園町から昼に、宮川町から夜に舞妓が来て笹配りをするところだろう。

お笹は巫女が舞う神楽で祈祷される。
お笹には御札(お守り)がついた状態でお金を出して授かる。

のこり福の日は舞妓さんのひとりから手渡しでお笹と、この日だけお餅をもうひとりからひとつ授かる。

お笹を授かれば境内奥、西の出口になる鳥居のほうへ誘導され、笹飾りを求めることになる流れだが、今宮戎しか知らない人は、お笹をお金を支払っていただいているのに、さらに子宝にお金を支払うことに何だか承服しがたいものを感じるやも知れない。
まさに「祇園価格」のお笹というべきか。

西宮のえべっさん

(訪問:2016年1月10日)

えびす総本社を名乗る西宮神社。
厳密に言うと、ヒルコ神系の総本社になる。(島根県の美保神社がコトシロヌシノミコト系の総本社を名乗っている。)
イザナギノミコト・イザナミノミコト夫婦によって海に捨てられたヒルコが西宮の浜に流れ着いたという伝説がある。
イザナギノミコト・イザナミノミコト夫婦の第一子なのだが、西宮神社では日の神(アマテラスオオミカミ)、月の神(ツキヨミノミコト)の次に生まれた「神」として「戎三郎」の異名がある。

そもそも西宮神社は市内の北の山手のほうにある廣田神社の摂社だったが、えびす信仰が室町時代廣田神社の主祭神を上回ってしまって、今日に至っている。

今宮戎や京都のえべっさんに通いなれている人には笹飾りする子宝が境内に居並ぶ立派な屋台店(「吉兆店」)で買うことに、あらためて本家のスケールの大きさを感じるだろう。

拝殿入口でやぐらに上った神職にお祓いを受ける。

エビスに参ればダイコクに参るのはどこでも皆お約束のように考えるようで、境内には大国社があり、本殿を詣ったあと併せてこちらに詣られる人も多い。

お笹は巫女から求める。
小ぶりのプラスチック製だ。

「吉兆」は拝殿前のエビ色のれんの「吉兆店」で求める。
「吉兆をください」と言わないと見つからないかも知れない。
西宮に参詣される方で「吉兆」という小宝自体をご存じの方は少ないような気がする。

また西宮神社にはえびす神のもう一つのお姿の「荒ぶる魂」が別に「沖惠美酒(あらえびす)」として祀られており、「えびすさまの両まいり」をするようすすめられている。

 

京都がそんなにええもんか

最近は外国人観光客の激増で足の踏み場もないくらいの勢いで、むしろ日本人が敬遠しはじめているとさえ言われる京都だが、それでも京都好きを標榜する日本人は多く、なにかと京都を紹介するTV番組や雑誌は非常に多い。

数日前であるが、京都のもので身の回りを埋め尽くし習慣を踏襲し伝統大好きな関東住まいの方のSNS投稿で、「京都の老舗の接客はやはり優れている」との内容にどうも引っかかって、大人げなく反論コメントをしてしまった。

そもそもあくまでも観光目的でしか京都に来ることのない首都圏や他の地方の人と仕事や買い物などの日常生活のなか、その日のうちに京都を行き来し、その逆で京都から通ってくる人と出会うことも少なくない関西圏の人とあきらかに京都の印象に差がある。

つまり観光意識の人が見ている京都は非日常で、上述のメディアに紹介される脚色もされた麗しい京都でしかないからだ。
そんな京都は何もかも日本の最上級で、醜い落ち度などあろうはずがなく、メディアに紹介される風習こそが日本人が守っていくべき伝統だと信じて疑わない。
歴史ある古い場所も、食事をする場所、最近できたような店にいたるまで、関西や地元京都の人でも知らないような場所や知識すらもっていたりする。
日本にある少し古くからあるようなものや習慣は全部京都発祥だと思ってさえいて、これに関しては地元の京都人にさえ少なからずおられる。

日常生活に行き来も人との交流もある京都に関西の人たちは悪口を言わないまでもずいぶん得な扱われ方だという感覚はあるが、 京都は地続きな場所で、京都人は隣人以上の何者でもない。
良いところも悪いところもある。
僕はメディアには対象的と揶揄されるがわの大阪の大阪人だけれど、その大阪の笑いモノや嫌われモノの印象も京都同様に首都圏メディアが作り上げたもので、自虐もネタにして笑える大阪の人の特異な寛大さがそれを許しているだけである。
(井上章一さんの著書にもあるが、ノーパン喫茶や、そもそもスケベな色事に関する文化は京都のほうが発祥だったりかつては先を行っていたものなので付け加えておく。)

観光意識の人には京都の人たちの全国でどこにでも見られるような普通の人付き合いや生活に関心が及ぶことはまずありえないし、その夢を壊すような反論をしても意味がないのかもしれない。

半世紀大阪で生まれ育って来た僕は、夜はいまの奈良とそう変わらない真っ暗だった京都の市街をなんとなく憶えているし、申し訳ないが僕の実家は商売をしていたこともあるけれど、 当時の京都のお店では正直行き届かないと感じる接客やサービスは一度ならず、それも老舗新参にかかわらず、度々家族で受けるところは少なからずあった。

名の通った料理屋さんはどうだったか知らないが、今は一般客もそれなりのお金を支払えば食事ができるが、昔はそんな場所は一般客の行くような店でもなかった。

昔ながらに一見客より地元の付き合いの長い客を大切にする風土があったからで、おそらくそれは京都に限らずあったろうに思う。
でも京都には他所を知らないこともあるがうちの家族は悪いイメージを残してきた。

関西以外の人たちがいだく麗しき京都のイメージは、昭和40-50年代から、JRの前身の国鉄にはじまった広告や、女性ファッション誌がこぞって京都を特集するようになってからだ。
「京都慕情」や「女ひとり」のような歌謡曲の流行も後押しした。

最近は京都でどこのお店に行っても、大阪や他の地域で感じる印象とまったく変わらなくなった。
観光客、とくに女性の観光客が増えたことや、他府県に本店のあるお店や全国チェーン店の進出で、必然接客やサービスも全国レベルに向上していったのだろう。

「京都の老舗の接客はやはり優れている」と言われるまでになったと、亡くなった両親兄弟に伝えておきたいものだ。

鼻で笑う気もするけれど。

そもそも日本の「伝統」と冠がつくもののたいていは戦後、古くさかのぼっても明治以降のものでしかない。

いまでは当たり前なお正月の初詣も鉄道会社が主導した集客な催しであるし、そもそも神社もお寺も明治までは神仏習合な状態であったのでそれぞれでの振る舞いやしきたりがいまのかたちに整備されたのは神仏分離以降である。

歴代の天皇も法名を得られて仏式で葬られた方は少なくないし、現在の神式で執り行われる数々の皇室の行事も古代にはあったのかもしれないがいまのかたちになったのはやはり明治の頃で、新政府が天皇の権威付けに勤しんだ結果である。

「和食」は京都こそが発祥で昔は皇室や貴族が食べ親しんできたものやその習慣が京都の和食になっているとすら思っている人は少なくないと思うが、そもそも内陸で魚もとれない京都と、北前船で北海道から昆布が入ってきたり、海路が使えて鮮度の高い食材が集まる、豊臣時代からの商都大阪で料理の技術はどちらが長く上回っていたかは言うまでもないだろう。

板前を大阪から迎えた京都の料理屋さんは腕は確かと評判になり、当の板場の地元の料理人たちは戦々恐々としていたのである。

私たちは日常、食卓に上がるハンバーグやトンカツを「洋食」とは言わない。
「洋食」という言葉には明治の文明開化であるとか、レトロなイメージすらおぼえる特別な響きを感じる。
これに対して私たちは日本人なのに「和食」という言葉は普通に使う。
つまりは私たちの生活において今や洋食の食事がスタンダードで、そもそも日本人が毎日普通に食べてきた献立をむしろ「和食」と呼ぶようになった。
かつては和食が普通だったから、欧米風の献立を「洋食」という言葉ができたのである。

日本の「伝統」という言葉は、戦後、そういう日本人の生活の欧米化に対して意識して使われるようになったものであることは疑いない。

京都を華やかに彩る芸妓舞妓も、正直なところ「伝統」という傘を外してしまうと、夜の水商売という位置づけではバーやキャバレーのホステスに完全に後塵を拝するようになり、「伝統」を標榜して、彼女たちと真っ向勝負はしないことにしたのである。
日本の「伝統」を守っていくことが日本らしさや、日本人のアイデンティティを失わないためにも必要であることは理解するが、「伝統」を冠にしないと、便利で親しみやすい欧米の仕組みに上書きされて、生き残れないものはごまんとある。

しかし、そういうのちに「伝統」を冠するような古刹と芸能や技術は、遷都で賑わいを失う京都の活力として、大阪にも対抗心をもって、明治の京都で、大河ドラマ「八重の桜」でも登場した槇村参事や山本覚馬らがとりかかり、以来行政主導で整理をして保護継承に努めたから今がある。
芸舞妓がいるような花街も京都がオリジナルではなく、全国各地にあったし、いまもそれぞれの地でみんな頑張っておられるが、特に京都は地元のイメージになるほどに力を入れて保護してきたのである。
それは大したものである。
隣県の奈良がなにか京都がやっていることのマネをしても京都のようにはいかないのは根本の次元が違いすぎるからだ。

他人様がどう夢を描かれようが自由であるが、でもそれぞれの地元にも誇れるものはあるし、京都のものに見劣りするものでもないので目を向けてほしい。
それを守っていけるのは地元の人たちしかいない。

なんでもかんでも伝統だからと縛られたり、珍重することにも少しは疑いをもったほうがいい。
そういうことに固執することが、迷いや不安がなくて快適に感じる人が多いこともわかってはいるが。