東京のYEBISUな神社

つい最近、ホームページのお仕事でクライアントの賃貸物件が大阪の恵美須町にあるのに、EBISUと名前につけてるのを見て、間違ってはないけど詐欺っぽいなあと思ったことがある。

そういえば、知ってる関西の人が東京に転居されて1月10日だから、恵比寿の恵比寿神社に行ってみたけど、何もやってなかったと言っていた。

東京の恵比寿という場所はもとは下渋谷村というところで、明治22年にヱビスビールの工場ができて、ビールの出荷用にできた貨物駅も「恵比寿停車場」と名付けられ、この界隈は工場で働く人の生活の場ともなり、昭和3年に村は恵比寿という地名になったらしい。

恵比寿には2つの「恵比寿神社」があって、ひとつはヱビスビールを製造する日本麦酒醸造会社、いまのサッポロビールが明治27年に工場の敷地内に自社の商売繁盛を祈念して、兵庫・西宮神社から勧請されたものが、工場跡に恵比寿ガーデンプレイスができたのを機に一般に開放されたもので、そういうわけだから、社務所などもない。

もう一つの恵比寿神社はもとは「天津神社」と称されていた神社に、戦後の区画整理に併せた社殿新築を機に、事代主神を合祀して、以来「恵比寿神社」と改称されたそうだ。

そういうわけで商売繁盛のえびす信仰と縁はあるものの、祭礼や風習まで引き継ぐほどのものではなかったということである。
サッポロビールが勧請したのがヒルコ神で、旧天津神社のほうが事代主神を勧請していて、えびすさまと呼ばれるの二神をそれぞれに祀っているところが偶然なのか、旧天津神社のほうがそうしたのか、なかなか興味深い。

余談であるが「エビオス錠」という薬の名前がエビスっぽいはもともと発売元が日本麦酒醸造会社で、ヱビスにギリシャ語で「命の素」という意味のBIOSを合体させて命名したからだそうである。

令和のトラッド

総じて令和のいま、男性には着るものやファッションにこだわる人は少ない。
かくいう自分も同様である。
身近な男性がファッションについて関心をもっていれば世の中は相当景気がよい状況だと言っておそらく過言ではない。
自分の場合、この10年くらいのあいだにユニクロのものの割合も相当高くなった。
当初のような廉価ものの印象でユニクロを来ていて他の人から見下される感はもうないし、ヒートテックやらエアリズムやら機能性の面からみんながこぞって季節には着用するものすらある。

特段ファッションに関心がなくてもユニクロで買ってれば、身なりもそれなりにちゃんとする。
そういえばユニクロの当初は無地無柄の一色のトレーナーやら、とくに冬の衣類の定番ジャンルにしてしまったフリースを同じ色を棚一列に並べて、店の中を虹のような印象にしていたのがとても斬新で特徴的だったが、いつしかそれもやめていまは機能性をメインにするせいか商品の顔は”トラッド”が基本である。

トラッド。

50代以上の中高年にはバブルとともに若い頃の記憶にあるファッションスタイル。
バブルの街を歩く男性は、イカリ型のDCブランドのジャケットを来ているか、ブレザーにボタンダウンシャツにタータンチェックのパンツのトラッドスタイルで溢れていた。
男性はファッションに関心をもっているのが常識だったので、感性みたいなものがなくてもPOPEYEやホットドッグプレスという雑誌をマニュアルにして服を買い揃え来てるという感じだった。
恋愛もそういう雑誌の情報をマニュアルにしている有様だった。

かくいう自分も同様であった。
だから、いまのユニクロでの服選びは中高年男性には格別の安心をもってできるのかも知れない。
現在のファッション雑誌にはユニクロをおしゃれに着こなすためのラインナップがあるようで、多くの中高年世代が安心で買い求めてるものとは全然目線が違うのも確かなのだが。

本当に良いものには高価でも妥当な金額として買い求める。
奇をてらわず、シンプルで一流の素材と一流の仕事に価値を感じる。
本来のトラッドとはそういうもので、またそういう景気のよい世の中と、自分にまたなってほしい、なりたいものである。

ジョゼと虎と魚たち、2021年

今朝見たアニメ映画に触発されて、家に返って上映当時気になりながらも見逃した2003年の実写映画も見て、寝る前に原作も読み切ってしまった。

2003年の映画は人の持っている偽善や背徳感を生々しく晒す話でその後に明るい希望を思い描かせることなく終わる。撮影当時では池脇千鶴さんもジョゼに適役だったと思う。

登場人物たちはみんな大阪弁を話すし大阪を舞台想定しているのだろうが、そのスレた世界観を現すには2003年の大阪は洗練し過ぎていて多くの他の場所でロケされていてそのあたりには、大阪人の目線では凄く違和感がある。

原作はじつはごく短い短編で映画の下地になった生々しさはあるが、ジョゼは乳母車ではなく車椅子に座っているし話の滑り出しはアニメのほうに近い。
生々しいというか、問題に向き合うのってそういうもんとちゃうの、人って、というあっさりした読後感がある。
とくにこの先に希望を見出さないまま終わること自体は実写映画と同じだ。
映画みたいに恒夫が泣き崩れることはないが。

作者の田辺聖子さんは戦前戦後を生きた、ちょうど”おちょやん”の浪花千栄子さんとは別に、作品もご本人も大阪を代表する女性で、作品が人気された時期はインターネットも無いし、先生の作品が大阪以外のところで大阪の人となりを描いて伝えていた媒体でもあったと思う。
ただ女性に人気のあった田辺作品の本当の魅力は僕は女性ではないので、じつはわかってないかもしれない。
原作が描く時期はジョゼが阪神で村山がマウンドに上がっているのを幼少に見た体験を語っているので逆算して昭和50年代頃か。

実写映画も原作も即日手を出してしまったくらい今回のアニメ作品は正直良かった。
ジョゼにも恒夫にも未来の希望をもたせて清涼感で終わるというかなりの改変があり、いかにも今風なアニメになっていて、田辺先生が見られたらどうお思いになるか…ではあるが、現在の大阪の風景で登場人物といまの世代に同じ轍を踏ませるならこうなるかな、という感じ。

ロケ地の情景を忠実に描いて見せるのは「けいおん」より後のアニメのお約束になったが、個人的には8割9割、立ち寄ったことのある場所の光景だが、それを気にしてジョゼの家はどのあたりか考えるとわけがわからなくなるのでやめたほうがいい。
家の前が玉串川で愛染坂が近くにあって最寄駅が天下茶屋駅で車椅子で箕面市図書館に行けるとか、そんなとこあれへんから。

それでも、大阪と周辺の現在の光景に落とし込んで描いた”無理のなさ”がしっくりくるし、純粋に大阪を描くアニメとして、ちょっと流行ればいいなと思う。

六甲颪に颯爽と

今年前半のNHK朝ドラ「エール」のモデルが古関裕而さんであるが発表された時点でかなりの阪神タイガースファンの方々がおぉと反応したのではないか。

作詞 佐藤惣之助、作曲 古関裕而。

六甲おろし、正式には「阪神タイガースの歌」。

阪神が勝てば、いや何かうれしいことや祝い事があれば、自分を鼓舞したいことがあれば、かつては中村鋭一のレコードを、立川清登のカセットを、唐渡吉則のCDを引っぱり出して、現在はYouTubeで探して大音量で掛けた経験のある人は関西方面には少なからずいるだろう。

「大阪タイガースの歌」は昭和11年3月に甲子園ホテル(現在、武庫川女子大学甲子園会館として残る)で行われた、チーム激励会の中で初披露された。

選手たちは1-2月に甲子園で初練習を行い、加古川市の浜の宮公園で初めてのキャンプを行っているが、吹き荒ぶ”六甲颪”の寒風に負けじと練習に取組む当時の様子が歌詞から想像される。

古関さんが作曲したのは「”大阪”タイガースの歌」である。

阪神タイガースは昭和10年に株式会社大阪野球倶楽部」として阪神電車の出資で誕生し、通称は「大阪タイガース」であった。

米国のMLBのチームが親会社やスポンサーの名前ではなく地域や都市名を冠にして、地元に溶け込もうとした理想に当初のプロ野球は基づいていた。

Jリーグは初代チェアマンの川淵三郎さんの奮闘で、とくに讀賣の渡邉恒雄会長と激論の末にこの理想を今も貫いている。

この理想を砕いたのは太平洋戦争で、

東京ジャイアンツ(大東京野球倶楽部)も大阪タイガースも出資会社が親になって配下に吸収して経営することになったせいである。

そして戦時の敵性語禁止令で当時は「タイガース」や「タ軍」と呼ばれていたのを「阪神」に変えて、ユニホームの胸につけたことが、他の電鉄系球団との区別や対比でむしろ定着し、昭和36年に会社及び球団名を「阪神タイガース」に改称する。

これに併せて「大阪タイガースの歌」は「阪神タイガースの歌」に改称され、歌詞にも変更が加えられた。

サビが、オゥオゥオゥオゥなのは、大阪につなげるためのリフレインで、現在は阪神に置き換わったから、歌うときに一旦息継ぎが必要な不自然な歌になっている。

「阪神タイガースの歌」の通称「六甲おろし」を定着させたのは元ABC朝日放送アナウンサー 故 中村鋭一さん、ファンには鋭ちゃんと広く知られる方である。

関西の中高年以上の方には”えーちゃん”と言われて矢沢永吉より中村鋭一を思い浮かべる人は少なくない。

それほど高視聴率を誇った昭和40年代ラジオ番組「おはようパーソナリティー中村鋭一です」の番組中に、当時はプロ野球ファンには関心の無かった球団歌である「阪神タイガースの歌」を発掘して、阪神勝利の翌朝に「声高らかに六甲颪だー」と叫んで歌い出すさまが関西地区の朝の風物詩にすらなってしまったことに由来する。

結果、そもそも社歌のようなものであった球団歌がプロ野球の観戦に欠かせなくなった始まりである。

僕は音楽の良し悪しは全然わからないが中村鋭一さんの”六甲颪”は子どもの頃、家で朝に聴かされていたこともあって耳慣れしていることは多分にあると思うが、他の歌手とは違い、歌手でもない中村さんがアナウンサーとして鍛えられた声とはいえ素人のタイガース愛だけで歌いあげる歌に、みんなも併せて歌い易さを感じるし、朝のすがすがしさや、よし頑張るぞ、という気合い入れには向いている感じがして、近年はタイガースの応援どころか野球すら観ていないが、自分を鼓舞したいときには中村さんの曲の抑揚で口ずさむことがある。

中高年以上のタイガースファンの方々には圧倒的にこの曲が六甲おろしだろう。

球団が公式に球団歌としたのは、立川清登さんの「阪神タイガースの歌」である。

この曲は平成の始め頃まで甲子園球場でゲーム前のチーム練習でタイガースの番になったときに奏でられ、スタンドのタイガースファンにいよいよであると高揚させていた。

1985年頃から試合勝利後に球場でファンが合唱することが定着していくが当初はこの曲にみんなが併せていた。

立川さんのものを「正調」などと言うタイガースファンも多いし、これを聴くとやっぱりかつての甲子園球場の様子が思い浮かんでくる。

日本一になる勢いで、カセットに、のちにシングルCDになったが、その後立川さんサイドとの権利関係の問題とやらで、六甲おろしは歌唱無しのものなど球団としては公式に特定の歌手が歌うものを選定していない。

若いタイガースファンの方々にはこれらのどれでもない、唐渡吉則さんの歌こそが六甲おろしという印象をもたれている方も多いだろう。

あえて紹介しないのは、僕の信条というか、思い入れがないからだ。

近年の人気歌手たちの輪唱もしかり。

僕はかつては虎ブロガーだった頃もあるが先にも書いたが今はタイガースを応援するどころか野球すらほとんど観ていない。

甲子園球場も子どもや女性の方々への配慮が行き届いた結果、スタンドからヤジのひとつも出ず、湧き上がる”🎵がんばれがんばれ○○〜”というコールがこそばゆく不快で、勝負の場の臨場感というか、殺伐感が無くなって魅力を感じなくなってしまった。

1980年代頃からブンチャカ応援マーチが轟くようになって、すでに難しくはなっていたが、さらにそのように人畜無害化してしまった場所に村山vs長嶋や江夏vs王のような息をのむ一騎討ちを、それを固唾をのんでスタンドで見まもるという野球の大きな魅力がもう二度と期待できないと悟ったからである。
演ずるほうはもちろん見るほうにも多少の血の気は必要だからだ。

いまでも六甲おろしは歌うし、タイガース以外を応援する気はないし、「闘魂こめて」を聴くと無性にイライラして拳を固めてしまう僕は「昔のタイガースファン」ではあるけれど、現在のタイガースファンではない。

そういう事情で唐渡さん以降は書かないので、聴いてみたい気になったら、申し訳ないがご自身でググッてYouTubeやら、CDやらでお願いする。

カミサマと向き合う

コロナ禍自粛で仁-JIN- が再放送されていて、このドラマ自体は面白くて本放送でも欠かさず見ていたのだが、このドラマのキーワードである「神様は乗り越えられる試練しか与えない」が頻繁に登場し、登場人物の行動を左右していることに強く違和感を覚える。

というのは、このワードは新約聖書の「コリント人への手紙」にある一文で、幕末には外国人の出入りや滞在があったのでその影響をまったく否定はしないが、それでもまだ鎖国の日本の日本人になるほどそうだと受け入れられるとは考え難い。
日本の神社のカミサマはそういう存在ではないからだ。
古代や平安時代の頃のように畏怖を感じて祀られることはもうなくて、現在のように願掛けをしにお詣りさせていただくようになっていたとは思うが、人を試すための試練など与える存在という認識はさすがにないだろう。

このコロナ禍で京都の八坂神社などでは境内に夏に見る「茅の輪くぐり」の茅の輪が設けられたりしている。
八坂神社は昔から疫病退散を祈願する神社で祇園祭もその意味合いから行われている。
主祭神はスサノオノミコト。
“荒ぶる神様”で私たち人の目線では決して善行ばかりをなさった方ではない。
茅の輪や粽にまつわる話は過去に書いたとおり。
そもそもは暴走され、世の中に災いを起こされないようにおいさめするべく祀られ、氏子たちはご機嫌をとるために祇園祭を行なっているという、畏怖によって祀られたカミサマである。
だから、コロナから私たちをお救いください、というよりは、コロナを撒き散らすようなそのお怒りをお収めください、とお願いするのが正しいように思う。

さて、みなさんは家の近くの氏神や初詣に行く神社に祀られているカミサマが誰でどんなカミサマかご存知だろうか。
お寺のご本尊もしかりであるが。

自分のことを誰かにお願いにあがるときに名前も、素性も、その専門も知らないでお願いができますか?
古事記を読みなさいとまでは言わないまでも、参詣前にちょっとググってみよう。
親しみも湧くだろうし何をお願いすべきか確認ができる。
氏神さまの名前も素性も知らないなんて近所付き合いとしては失礼があるんじゃないか。

逆に、あなたも願い事の前に住所と名前の自己紹介くらいは先に伝えること。
相手も見知らぬ者にお願いされても聞き入れにくい。

そう考えていくと本当のところ小銭でいっぱいお願いしても向こう様も挨拶程度にしか応えてくれないのもまたしかりというわけだが…

京都のえべっさん

(訪問:2016年1月11日)

京都えびす神社は、縄手通(大和大路)を挟んで向かいにある建仁寺の守護として、栄西禅師が自身の故郷の岡山から迎えたえびすさまで、西宮や今宮のように海との縁から祀られたえびすさまとはちょっと事情が違うが、参詣者が笹をいただいて帰るとか、壁を叩いて耳の弱いえびすさまに願掛けの念押しする、十日戎詣りによく知られた習慣はここが発祥と考えるのが妥当な事情がある。(詳しくは過去記事を参照。)

とくに京都のえべっさんらしさを感じるのがのこり福の日で、近隣の祇園町から昼に、宮川町から夜に舞妓が来て笹配りをするところだろう。

お笹は巫女が舞う神楽で祈祷される。
お笹には御札(お守り)がついた状態でお金を出して授かる。

のこり福の日は舞妓さんのひとりから手渡しでお笹と、この日だけお餅をもうひとりからひとつ授かる。

お笹を授かれば境内奥、西の出口になる鳥居のほうへ誘導され、笹飾りを求めることになる流れだが、今宮戎しか知らない人は、お笹をお金を支払っていただいているのに、さらに子宝にお金を支払うことに何だか承服しがたいものを感じるやも知れない。
まさに「祇園価格」のお笹というべきか。

西宮のえべっさん

(訪問:2016年1月10日)

えびす総本社を名乗る西宮神社。
厳密に言うと、ヒルコ神系の総本社になる。(島根県の美保神社がコトシロヌシノミコト系の総本社を名乗っている。)
イザナギノミコト・イザナミノミコト夫婦によって海に捨てられたヒルコが西宮の浜に流れ着いたという伝説がある。
イザナギノミコト・イザナミノミコト夫婦の第一子なのだが、西宮神社では日の神(アマテラスオオミカミ)、月の神(ツキヨミノミコト)の次に生まれた「神」として「戎三郎」の異名がある。

そもそも西宮神社は市内の北の山手のほうにある廣田神社の摂社だったが、えびす信仰が室町時代廣田神社の主祭神を上回ってしまって、今日に至っている。

今宮戎や京都のえべっさんに通いなれている人には笹飾りする子宝が境内に居並ぶ立派な屋台店(「吉兆店」)で買うことに、あらためて本家のスケールの大きさを感じるだろう。

拝殿入口でやぐらに上った神職にお祓いを受ける。

エビスに参ればダイコクに参るのはどこでも皆お約束のように考えるようで、境内には大国社があり、本殿を詣ったあと併せてこちらに詣られる人も多い。

お笹は巫女から求める。
小ぶりのプラスチック製だ。

「吉兆」は拝殿前のエビ色のれんの「吉兆店」で求める。
「吉兆をください」と言わないと見つからないかも知れない。
西宮に参詣される方で「吉兆」という小宝自体をご存じの方は少ないような気がする。

また西宮神社にはえびす神のもう一つのお姿の「荒ぶる魂」が別に「沖惠美酒(あらえびす)」として祀られており、「えびすさまの両まいり」をするようすすめられている。

 

京都がそんなにええもんか

最近は外国人観光客の激増で足の踏み場もないくらいの勢いで、むしろ日本人が敬遠しはじめているとさえ言われる京都だが、それでも京都好きを標榜する日本人は多く、なにかと京都を紹介するTV番組や雑誌は非常に多い。

数日前であるが、京都のもので身の回りを埋め尽くし習慣を踏襲し伝統大好きな関東住まいの方のSNS投稿で、「京都の老舗の接客はやはり優れている」との内容にどうも引っかかって、大人げなく反論コメントをしてしまった。

そもそもあくまでも観光目的でしか京都に来ることのない首都圏や他の地方の人と仕事や買い物などの日常生活のなか、その日のうちに京都を行き来し、その逆で京都から通ってくる人と出会うことも少なくない関西圏の人とあきらかに京都の印象に差がある。

つまり観光意識の人が見ている京都は非日常で、上述のメディアに紹介される脚色もされた麗しい京都でしかないからだ。
京都好きは、そんな京都は何もかも日本の最上級で、醜い落ち度などあろうはずがなく、メディアに紹介される風習こそが日本人が守っていくべき伝統だと信じて疑わない。
歴史ある古い場所も、食事をする場所、最近できたような店にいたるまで、関西や地元京都の人でも知らないような場所や知識すらもっていたりする。
日本にある少し古くからあるようなものや習慣は全部京都発祥だと思ってさえいて、これに関しては地元の京都人にさえ少なからずおられる。

日常生活に行き来も人との交流もある京都に関西の人たちは悪口を言わないまでもずいぶん得な扱われ方だという感覚はあるが、 京都は地続きな場所で、京都人は隣人以上の何者でもない。
良いところも悪いところもある。
僕はメディアには対象的と揶揄されるがわの大阪の大阪人だけれど、その大阪の笑いモノや嫌われモノの印象も京都同様に首都圏メディアが作り上げたもので、自虐もネタにして笑える大阪の人の特異な寛大さがそれを許しているだけである。
(井上章一さんの著書にもあるが、ノーパン喫茶や、そもそもスケベな色事に関する文化は京都のほうが発祥だったりかつては先を行っていたものなので付け加えておく。)

観光意識の京都好きの人には、京都の人たちの全国でどこにでも見られるような普通の人付き合いや生活に関心が及ぶことはまずありえないし、その夢を壊すような反論をしても意味がないのかもしれない。

半世紀大阪で生まれ育って来た僕は、夜はいまの奈良とそう変わらない真っ暗だった京都の市街をなんとなく憶えているし、申し訳ないが僕の実家は商売をしていたこともあるけれど、 当時の京都のお店では正直行き届かないと感じる接客やサービスは一度ならず、それも老舗新参にかかわらず、度々家族で受けるところは少なからずあった。

名の通った料理屋さんはどうだったか知らないが、今は一般客もそれなりのお金を支払えば食事ができるが、昔はそんな場所は一般客の行くような店でもなかった。

昔ながらに一見客より地元の付き合いの長い客を大切にする風土があったからで、おそらくそれは京都に限らずあったろうに思う。
でも京都には他所を知らないこともあるがうちの家族は悪いイメージを残してきた。

関西以外の人たちがいだく麗しき京都のイメージは、昭和40-50年代から、JRの前身の国鉄にはじまった広告や、女性ファッション誌がこぞって京都を特集するようになってからだ。
「京都慕情」や「女ひとり」のような歌謡曲の流行も後押しした。

最近は京都でどこのお店に行っても、大阪や他の地域で感じる印象とまったく変わらなくなった。
観光客、とくに女性の観光客が増えたことや、他府県に本店のあるお店や全国チェーン店の進出で、必然接客やサービスも全国レベルに向上していったのだろう。

「京都の老舗の接客はやはり優れている」と言われるまでになったと、亡くなった両親兄弟に伝えておきたいものだ。

鼻で笑う気もするけれど。

そもそも日本の「伝統」と冠がつくもののたいていは戦後、古くさかのぼっても明治以降のものでしかない。

いまでは当たり前なお正月の初詣も鉄道会社が主導した集客な催しであるし、そもそも神社もお寺も明治までは神仏習合な状態であったのでそれぞれでの振る舞いやしきたりがいまのかたちに整備されたのは神仏分離以降である。

歴代の天皇も法名を得られて仏式で葬られた方は少なくないし、現在の神式で執り行われる数々の皇室の行事も古代にはあったのかもしれないがいまのかたちになったのはやはり明治の頃で、新政府が天皇の権威付けに勤しんだ結果である。

「和食」は京都こそが発祥で昔は皇室や貴族が食べ親しんできたものやその習慣が京都の和食になっているとすら思っている人は少なくないと思うが、そもそも内陸で魚もとれない京都と、北前船で北海道から昆布が入ってきたり、海路が使えて鮮度の高い食材が集まる、豊臣時代からの商都大阪で料理の技術はどちらが長く上回っていたかは言うまでもないだろう。

かつては板前を大阪から迎えた京都の料理屋さんは腕は確かと評判になり、当の板場の地元の料理人たちは戦々恐々としていたのである。

私たちは日常、食卓に上がるハンバーグやトンカツを「洋食」とは言わない。
「洋食」という言葉には明治の文明開化であるとか、レトロなイメージすらおぼえる特別な響きを感じる。
これに対して私たちは日本人なのに「和食」という言葉は普通に使う。
つまりは私たちの生活において今や洋食の食事がスタンダードで、そもそも日本人が毎日普通に食べてきた献立をむしろ「和食」と呼ぶようになった。
かつては和食が普通だったから、欧米風の献立を「洋食」という言葉ができたのである。

日本の「伝統」という言葉は、戦後、そういう日本人の生活の欧米化に対して意識して使われるようになったものであることは疑いない。

京都を華やかに彩る芸妓舞妓も、正直なところ「伝統」という傘を外してしまうと、夜の水商売という位置づけではバーやキャバレーのホステスに完全に後塵を拝するようになり、「伝統」を標榜して、彼女たちと真っ向勝負はしないことにしたのである。
日本の「伝統」を守っていくことが日本らしさや、日本人のアイデンティティを失わないためにも必要であることは理解するが、「伝統」を冠にしないと、便利で親しみやすい欧米の仕組みに上書きされて、生き残れないものはごまんとある。

しかし、そういうのちに「伝統」を冠するような古刹と芸能や技術は、遷都で賑わいを失う京都の活力として、大阪にも対抗心をもって、明治の京都で、大河ドラマ「八重の桜」でも登場した槇村参事や山本覚馬らがとりかかり、以来行政主導で整理をして保護継承に努めたから今がある。
芸舞妓がいるような花街も京都がオリジナルではなく、全国各地にあったし、いまもそれぞれの地でみんな頑張っておられるが、特に京都は地元のイメージになるほどに力を入れて保護してきたのである。
それは大したものである。
隣県の奈良がなにか京都がやっていることのマネをしても京都のようにはいかないのは根本の次元が違いすぎるからだ。

他人様がどう考えるかは自由であるが、でもそれぞれの地元にも誇れるものはあるし、京都のものに見劣りするものでもないので目を向けてほしい。
それを守っていけるのは地元の人たちしかいない。

なんでもかんでも伝統だからと縛られたり、珍重することにも少しは疑いをもったほうがいい。
そういうことに固執することが、迷いや不安がなくて快適に感じる人が多いこともわかってはいるが。

大阪人のコテコテとこいさんのゆくえ

僕はコテコテの大阪人と名乗るのも呼ばれるのも嫌で、
その言葉の源となったお好み焼やたこ焼が大阪の食文化の代表として語られるのも嫌。

僕なら大阪の食べ物なら、かやくごはんとか、おかかにコブだしのきつねうどんとかを選ぶ。
(ただし粉もんが嫌いなのではないので誤解なく。)
僕より上の世代の大阪の人たちなら確実にそういう人はいると思う。

そもそも大阪は薄味の食文化でソースギトギトの粉もんは対極な存在だ。
どこで大阪の食べ物のイメージは転換してしまったのか。

それはもう一つの疑問と符合する。

江戸から明治、大正時代を舞台にした大阪のドラマや舞台劇に登場する、こいさん、いとはん、ごりょんさん、典型的な、ちょっと昔の大阪を描く上で欠かせない登場人物だった彼女たち、商家の家族って今はどこに住んでいるのだろう。

関西では呉服店は京都に次いで兵庫が多い。阪神間に大きな需要があったからだ。

そう、芦屋マダムらの御用達。

じつはかつてのいとはんやごりょんさんは芦屋マダムになっている。

近代、商家は奉公人は自宅通いになり、店主の家族は芦屋や大阪市内の帝塚山に居を移し、仕事場だけを残したのである。

ビジネスの欧米化と東洋のマンチェスターと称される工業化が進み、空気の悪くなった大阪から店主は家族を芦屋などに邸宅を構えて移したことで、現在のブルジョアな芦屋界隈が出来上がる。

大阪人が妙にあの地域を憧れの目で見てしまう理由がそこにある。

汚い空の大阪に会社や工場勤めで通う河内や和泉住まいの労働者たちの職場や出先での会話が、秀吉の時代から伏見から移り住んだ商人たちの京ことばに由来する船場言葉を上書きしていく。

戦後はさらに西日本や遠い地方から働き口を求めて大阪に人が集まり、庶民文化が混ざっていく。

富裕層が大阪の中心からいなくなることで歌舞伎や文楽のようないわゆる芸能はお笑いなどの大衆芸能に追いやられ、南地や北新地といった芸妓がいた花街がキャバレーやバーといった大衆向けな店に凌駕されていく。

労働者は決して裕福ではなかったから、みんな「安くて、良いモノ」を買い求めて自慢するようになり、手取り早くおなかが膨れる粉もんが人気するようになる。

コテコテの大阪人は意外と新しい、大阪の島之内に祖先をもたない外来の人たちが作り上げたイメージで、おそらくは吉本の芸人さんたちらがTVやメディアで広げて定着させてしまったのである。

えべっさんの正体

京都・建仁寺と、縄手通(大和大路)を挟んで向かいの京都えびす神社との関係は、聖徳太子の時代もそうであったように大寺の建立の安全を祈願してすぐそばに神社が先に建立される例もしかり、その後も長く明治まで神仏習合時代であったため、特段珍しいことではないが、その由来となる伝説では栄西禅師が中国に渡航するときに嵐に見舞われ、エビス神の導きにより、無事目的地に到着したということで、建仁寺の建立に合わせてえびす神社がこの地に造営されたのだそうである。
この神社の事代主神は御分霊で、もとは栄西禅師の出身地の岡山からもってこられたもので、ゆえに他のえびす神社に見られるように、現在や昔の漁村であったり、かつて市が立つようなところといったロケーションとは無関係に存在している。

そもそもエビス神とは何者でいらっしゃるのか。
えびす神社各社により、御祭神が蛭子神であったり、事代主神であったりということは先にも述べたとおりであり、神社によっては時代が下がって相互に置き換えられてしまったところもある。
七福神では唯一日本の神といわれるのに、エビスという名称自体は外国人をさしていたり、まったく意味不明だ。

ただ、栄西禅師がエビス神の導きで無事に渡航できたこと、全国の漁村近くに祀られることから、海の幸、海の恵みをもたらす何かであったことは想像できる。

ある書によると、
それはイザナギ・イザナミの最初の子にして未熟児がゆえに海に流されたヒルコの伝説を手がかりになるが、おそらくはイルカのような大きなサイズの海洋生物か、人の水死体で、魚たちがこれを餌にして大量に群がっていたところに、漁師たちの船が出くわして、結果豊漁となったので、この何かの水死体を漁村に持ち帰って、埋葬して神様として讃えたのではないだろうかということだそうだ。
だからそもそも蛭子神か事代主命かはあと付けのプロフィールでしかないので、途中で置き換えることも躊躇がなかったのではないかと思われる。

推測であるが、栄西禅師はそのまさに魚が群がっているところに遭難した船が差し掛かり、漁師の船が来て救助なり沖まで誘導したのではないだろうか。
あるいは捜索中の人の水死体に遭遇して、捜索の船にともに救助されたのかもしれない。