京都のもん」カテゴリーアーカイブ

京都がそんなにええもんか(DEEP)

芸妓、舞妓や花街文化に興味があるので、先頃のツイッターの告発は気になっている。
瞬く間に大きな世論になったが、たいていの人はそもそも花街や芸妓舞妓に普段から関心があったわけではないから基本的な知識が欠如しているので、あらぬ想像を膨らませたり、ネットで文献を見つけてくるのはよいが解釈に極めて偏見が目立ち、花街や舞妓の印象を悪くしてしまった。
告発の内容を議論する以前に、基本的知識が誤認されているのに告発者はこれをまったく是正しようともしないのはとても問題がある。

これを機に京都と花街の歴史に向き合い、伝統に対する考え方をあらためることが必要と考える。
告発されたような問題が、なぜ京都で解決がなかなか進まないのか、少し事情が見えるかもしれない。

京都。

世の中には京都好きな人が多くて、そういう人たちが思い描く京都は、見目麗しい古都京都で、関西在住の人の目に映る京都とはかなり違っていることは以前にも書いた

東海道新幹線の開通により、遠くまで旅行することがたやすくなったことで、JRの前身の国鉄や各自治体が地域のPRに熱心に推し進めた。

とくに京都は女性ファッション誌がこぞって京都を特集したり、デュークエイセス、ザ・ベンチャーズ、渚ゆう子、チェリッシュ、小柳ルミ子、京都を題材とした歌謡曲がたくさんリリースされ、そして何よりカラーテレビの出現と普及で、お茶の間で見る京都の景観が多くの人を魅了したことが大きいのではないかと思う。

そして1970年代に京都を観光で訪れる男女比が逆転する。
こうして見目麗しい古都京都のイメージが出来上がったわけで、意外と最近のことである。

それ以前の京都といえば、主に「男性向けの観光地」で、昼は知的好奇心を満たす神社仏閣を巡り、なによりも夜を愉しむ場所だった。
東海道新幹線が開通して、大阪方面のビジネス出張があれば京都で降りて歓楽街に寄って帰る男性も少なくなかったようだ。

それは京都に限ったことではなく旅行自体も男性主体で温泉地にも芸者に始まって歓楽街が隣接するところは少なくない。

そんな時代を当時の「サラリーマン」だった男性ならみんなご存知のはずだけれど、ご健在でも90歳を超える世代だから、時とともに失われていくイメージなのだろう。

平成生まれとなると信じられないかもしれないが、昭和のアラフィフ以上の世代なら、20歳になったり、社会人になった記念に「筆おろし」などといって、男子が歓楽街で童貞を捨てるような儀式のようなことがあって、僕も儀式の対象にはならなかったが、友だちの機会のカンパに参加させられたことはある。

歓楽街で男性が遊ぶことは、女性とっては彼氏や旦那がそうであれば浮気心でしかないし、浪費であり、理解しがたいことだ。
女性の社会的地位が上がって、男性側の趣向にも変化があって、近年はおもてだって話題にすらならなくなったが、今も少なくはなったが無くなったわけではないし、昭和の頃はそういう街の数も規模も大きければ、当たり前に存在していた。

あえて言うなら、今より性に寛容な時代だった。

その「歓楽街」に京都の花街も当然含まれている。

花街。

当然ながら、たいてい大きな歓楽街のもとは廓(くるわ=遊郭)である。
通念上、現在、遊郭から”色事”を廃した街が「花街」ということになっている。

“色事”を廃する。

太平洋戦争後、それまで日本が公認で売春を認めていたことに1946年、GHQが廃止を指令し、それによる売春防止法の施行(1958年)以降、娼妓(「遊女」ともいう。娼婦、売春婦の古い呼称)が居なくなって、芸妓(芸者)、舞妓だけになったという意味だ。

遊郭は、娼妓を廃して「花街」になるところ、そもそも娼妓が中心になっているところは、遊郭ごと無くすか「花街」への転換が行われる。
主に後者にはその転換への猶予期間が与えられ、「赤線」地区と呼ばれ、半ば公認で売春が継続する。

京都でいうと、娼妓中心であった祇園乙部(赤線廃止にあわせて「祇園東」に)や宮川町は赤線の時期を経て「花街」になる。
赤線廃止後もすぐしばらくは表向きに芸妓のいるお茶屋や置屋を装って闇の売春営業を警察に摘発されることもあったようだ。

遊郭ごと無くすといっても多くは歓楽街、風俗街になるが、嶋原遊郭は赤線の頃までは夜は多くの男性客で賑わっていたが、赤線廃止後に「花街」になったものの、遊女(娼妓)の町から遊女がいなくなって、太夫こそいるが現在は花街としても全く形骸化している。
(追記:嶋原には花魁はいなかったと豪語する方々もおらえるが、戦後すぐに嶋原の揚屋 角屋で「おいらん餅」を花魁らがこねて配る行事の様子が写真が残っている。)

遊郭が公認だったのは明治維新後、国も全国どの地方の自治体も、慢性的な財政難で、遊郭は自治体とってほど大きな税収源であったことにある。
とくに京都においては、世界恐慌の時期も府外から客を呼んでブレることなく収益を上げ、京都市においても、京都府においても、税収がどの産業よりも多かった時期すらあったらしい。

戦後は、任天堂や島津製作所、京セラ、ワコールなど全国的世界的有名企業もあるが、当初は着物などに関する繊維産業が中心で、需要の減少から衰退を余儀なくされるが、花街がそれらの一大消費先であることは現在も変わらない。

芸舞妓や花街はそもそも京都だけの文化ではないが、他の地方では衰退しても、京都だけはこれを大事にしているのはそういう歴史的関係があるからかもしれない。

赤線廃止も東海道新幹線の開通も偶然のタイミングではなく、日本が変わっていく同じ時代の流れにあったと思うが、京都は1960年代以前のイメージの大転換が図られるなかで、併せて花街のイメージもまた美しく置き換えられ、舞妓といえば京都といわれるまでになる。

ゆえに京都の自治体は花街を無碍にできないし、強く出られない、ということがあるかもしれん。

伝統。

近年「伝統」という言葉が冠せられたものに価値を感じたり、心躍らせる人も多い気がする。
個人的な印象だがとくに京都好きを標榜する人に「伝統」に心酔している人が多い気がしている。

この言葉自体は中国の漢の時代の書物にもあるらしいが、日本で頻繁に、一般に使われるようになったのは昭和からのようだ。

日本の伝統と呼ばれるものは、調べてみるとほとんどが明治になってからのもので、

たとえば、神社にお参りするときは二礼二拍手一礼などの約束事を行うけれど、そもそも明治に神仏分離令が出る以前は神仏習合で、神官ならともかく庶民に神社にお参りの仕方にルールがあったとは思えないし、

皇室行事も昭和やそれ以前のように行うべきだという話もあったが、そもそも歴代天皇は仏門に帰依したかたもおられるし、神式で厳格に行うことのこだわりには疑問もある。

初詣も鉄道会社の集客ではじまっている。

京都の花街もその始まりこそ江戸時代以前にさかのぼるかもしれないが、現在われわれが目にする町の様子や、舞妓の身なりやらは明治時代に整ったもので、花街の営業許可は全国でほぼ同じ時期に下されている。

平成以降生まれには100年を超えればすごく歴史を感じるかもしれないが、昭和世代には自分の曽祖父が明治生まれも普通なので、明治はそう遠い昔とも思えない。

歴史好きは伝統に惹かれやすいようで、僕もしかりで、ずっと混同していたが歴史と伝統は決して同じ分類のものではない。

僕はちょうどバブルの頃にトラッド・ファッションに凝っていて、そのせいでアパレルに就職し、その分野に詳しくあることを求められた時期がある。
トラッドとはTraditional、日本語で「伝統的」と訳される言葉からきたものあるが、不易流行を指していると学んだ。

ふえき-りゅうこう【不易流行】
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。
また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。

 

伝統も、変わりにくい”流行”の一つでしかない。

日本でいう伝統の多くは、欧米化や機械化、エレクトロニクスなどによる合理化や現代における常識や生活習慣において「時代に合わなくなった」ものをあえて残すための口実になっていて、そういうものに多分に日本らしさみたいなものを感じたりして、魅了される一般の方すらおられるが、結局はこれに関わる人たちの自己防衛になっているように思う。
伝統を語らねば無くなってしまう。

さらにそれ自体を一切変えることを頑なに望まない傾向もあって、優れた本質を伝えていくという本当の意味からズレている。
故意なのか、思考停止しているのか、不都合なものもベールにかけて、不可侵にして逃げていることにもなっているかもしれない。

私たちも、伝統を冠するものを疑うことなく無条件に信奉するのではなく、伝えて残すべきものなのかを確認し見定める観点が必要だ。
伝統はそもそも”流行”なのだから。

歴史は起こってしまった過去のことで変えられない。
何事も過去にあったことに由来して今の事情があるので、それを踏まえないで現状を今の価値観や基準で非難することは、若い世代の方に多いようだが、いい大人のすることではない。
しかし良い過去も悪い過去も認めて、この先の未来をどう変えていくかを考えなければならない。

伝統と呼ばれるものもまた、どうあるべきかを考える。
伝統を不都合を隠すベールにして、弱者に被害が出るようなことなどあり得ないことだ。

イメージだけでなく、名実ともに魅力的な京都となり、花街となることを願う。

京都がそんなにええもんか

最近は外国人観光客の激増で足の踏み場もないくらいの勢いで、むしろ日本人が敬遠しはじめているとさえ言われる京都だが、それでも京都好きを標榜する日本人は多く、なにかと京都を紹介するTV番組や雑誌は非常に多い。

数日前であるが、京都のもので身の回りを埋め尽くし習慣を踏襲し伝統大好きな関東住まいの方のSNS投稿で、「京都の老舗の接客はやはり優れている」との内容にどうも引っかかって、大人げなく反論コメントをしてしまった。

そもそもあくまでも観光目的でしか京都に来ることのない首都圏や他の地方の人と仕事や買い物などの日常生活のなか、その日のうちに京都を行き来し、その逆で京都から通ってくる人と出会うことも少なくない関西圏の人とあきらかに京都の印象に差がある。

つまり観光意識の人が見ている京都は非日常で、上述のメディアに紹介される脚色もされた麗しい京都でしかないからだ。
そんな京都は何もかも日本の最上級で、醜い落ち度などあろうはずがなく、メディアに紹介される風習こそが日本人が守っていくべき伝統だと信じて疑わない。
歴史ある古い場所も、食事をする場所、最近できたような店にいたるまで、関西や地元京都の人でも知らないような場所や知識すらもっていたりする。
日本にある少し古くからあるようなものや習慣は全部京都発祥だと思ってさえいて、これに関しては地元の京都人にさえ少なからずおられる。

日常生活に行き来も人との交流もある京都に関西の人たちは悪口を言わないまでもずいぶん得な扱われ方だという感覚はあるが、 京都は地続きな場所で、京都人は隣人以上の何者でもない。
良いところも悪いところもある。
僕はメディアには対象的と揶揄されるがわの大阪の大阪人だけれど、その大阪の笑いモノや嫌われモノの印象も京都同様に首都圏メディアが作り上げたもので、自虐もネタにして笑える大阪の人の特異な寛大さがそれを許しているだけである。
(井上章一さんの著書にもあるが、ノーパン喫茶や、そもそもスケベな色事に関する文化は京都のほうが発祥だったりかつては先を行っていたものなので付け加えておく。)

観光意識の人には京都の人たちの全国でどこにでも見られるような普通の人付き合いや生活に関心が及ぶことはまずありえないし、その夢を壊すような反論をしても意味がないのかもしれない。

半世紀大阪で生まれ育って来た僕は、夜はいまの奈良とそう変わらない真っ暗だった京都の市街をなんとなく憶えているし、申し訳ないが僕の実家は商売をしていたこともあるけれど、 当時の京都のお店では正直行き届かないと感じる接客やサービスは一度ならず、それも老舗新参にかかわらず、度々家族で受けるところは少なからずあった。

名の通った料理屋さんはどうだったか知らないが、今は一般客もそれなりのお金を支払えば食事ができるが、昔はそんな場所は一般客の行くような店でもなかった。

昔ながらに一見客より地元の付き合いの長い客を大切にする風土があったからで、おそらくそれは京都に限らずあったろうに思う。
でも京都には他所を知らないこともあるがうちの家族は悪いイメージを残してきた。

関西以外の人たちがいだく麗しき京都のイメージは、昭和40-50年代から、JRの前身の国鉄にはじまった広告や、女性ファッション誌がこぞって京都を特集するようになってからだ。
「京都慕情」や「女ひとり」のような歌謡曲の流行も後押しした。

最近は京都でどこのお店に行っても、大阪や他の地域で感じる印象とまったく変わらなくなった。
観光客、とくに女性の観光客が増えたことや、他府県に本店のあるお店や全国チェーン店の進出で、必然接客やサービスも全国レベルに向上していったのだろう。

「京都の老舗の接客はやはり優れている」と言われるまでになったと、亡くなった両親兄弟に伝えておきたいものだ。

鼻で笑う気もするけれど。

そもそも日本の「伝統」と冠がつくもののたいていは戦後、古くさかのぼっても明治以降のものでしかない。

いまでは当たり前なお正月の初詣も鉄道会社が主導した集客な催しであるし、そもそも神社もお寺も明治までは神仏習合な状態であったのでそれぞれでの振る舞いやしきたりがいまのかたちに整備されたのは神仏分離以降である。

歴代の天皇も法名を得られて仏式で葬られた方は少なくないし、現在の神式で執り行われる数々の皇室の行事も古代にはあったのかもしれないがいまのかたちになったのはやはり明治の頃で、新政府が天皇の権威付けに勤しんだ結果である。

「和食」は京都こそが発祥で昔は皇室や貴族が食べ親しんできたものやその習慣が京都の和食になっているとすら思っている人は少なくないと思うが、そもそも内陸で魚もとれない京都と、北前船で北海道から昆布が入ってきたり、海路が使えて鮮度の高い食材が集まる、豊臣時代からの商都大阪で料理の技術はどちらが長く上回っていたかは言うまでもないだろう。

板前を大阪から迎えた京都の料理屋さんは腕は確かと評判になり、当の板場の地元の料理人たちは戦々恐々としていたのである。

私たちは日常、食卓に上がるハンバーグやトンカツを「洋食」とは言わない。
「洋食」という言葉には明治の文明開化であるとか、レトロなイメージすらおぼえる特別な響きを感じる。
これに対して私たちは日本人なのに「和食」という言葉は普通に使う。
つまりは私たちの生活において今や洋食の食事がスタンダードで、そもそも日本人が毎日普通に食べてきた献立をむしろ「和食」と呼ぶようになった。
かつては和食が普通だったから、欧米風の献立を「洋食」という言葉ができたのである。

日本の「伝統」という言葉は、戦後、そういう日本人の生活の欧米化に対して意識して使われるようになったものであることは疑いない。

京都を華やかに彩る芸妓舞妓も、正直なところ「伝統」という傘を外してしまうと、夜の水商売という位置づけではバーやキャバレーのホステスに完全に後塵を拝するようになり、「伝統」を標榜して、彼女たちと真っ向勝負はしないことにしたのである。
日本の「伝統」を守っていくことが日本らしさや、日本人のアイデンティティを失わないためにも必要であることは理解するが、「伝統」を冠にしないと、便利で親しみやすい欧米の仕組みに上書きされて、生き残れないものはごまんとある。

しかし、そういうのちに「伝統」を冠するような古刹と芸能や技術は、遷都で賑わいを失う京都の活力として、大阪にも対抗心をもって、明治の京都で、大河ドラマ「八重の桜」でも登場した槇村参事や山本覚馬らがとりかかり、以来行政主導で整理をして保護継承に努めたから今がある。
芸舞妓がいるような花街も京都がオリジナルではなく、全国各地にあったし、いまもそれぞれの地でみんな頑張っておられるが、特に京都は地元のイメージになるほどに力を入れて保護してきたのである。
それは大したものである。
隣県の奈良がなにか京都がやっていることのマネをしても京都のようにはいかないのは根本の次元が違いすぎるからだ。

他人様がどう夢を描かれようが自由であるが、でもそれぞれの地元にも誇れるものはあるし、京都のものに見劣りするものでもないので目を向けてほしい。
それを守っていけるのは地元の人たちしかいない。

なんでもかんでも伝統だからと縛られたり、珍重することにも少しは疑いをもったほうがいい。
そういうことに固執することが、迷いや不安がなくて快適に感じる人が多いこともわかってはいるが。

祇園祭のちまきや茅の輪くぐりが意味するもの

祇園祭のちまきや茅の輪くぐりの由来については

スサノオノミコトが一宿一飯の恩義で蘇民将来に子孫をまもってやるから目印にチマキ(茅の輪)を飾るようにと約束された

という話が備後国風土記にあり、

これが祇園祭のちまきや夏越の祓の茅の輪くぐりのいわれになっているが、

じつは風土記の話をちゃんと文を追って読めば、

スサノオノミコトが蘇民将来の嫁と娘に茅(かや)のベルトを巻かせておくよう言い残して、蘇民、巨旦もろとも将来一族を皆殺しになされたということなのだそうだ。
嫁と娘は子を為して子孫を残してもかまわないと免じられた。

“蘇民将来子孫也”のちまきを玄関先につけている家庭に加護があるのでなくて、つけているところ以外は善も悪も見境なく皆殺しにするから、結果その家は守られるという解釈が正しい。

祭りに浮かれてないで、スサノオノミコトに畏怖の念をもって、ちまきを飾りましょうね。

あーこわ~

(参考)「蘇民将来と素戔鳴神

井筒屋さんの「夕子」というお菓子

京都のお土産の生八ツ橋に、井筒屋八ツ橋本舗さんの「夕子」という商品がある。
昔はTVCMも熱心にやっておられたので、中高年やそれ以上の方にその名前にはそれなりになじみもあるだろう。

扱いのある店の前を通るたびに”水上勉「五番町夕霧楼」に因む京銘菓”(箱書き)が目にとまり、気になりだして読んでみようと思った。
ところが、絶版しているのである。(現在も書店の扱いのある全集には収録はされている。)
そうなると、性分で余計に気になって探し出して読まないと気になって仕方がなくなって、Amazonから中古品で入手する。
(入手するまでに下調べをするに、三島由紀夫の「金閣寺」に対するアンサー作品とあるので、そちらも先に読んでしまう。)

案の定、遊郭の娼妓の物語であった。
五番町は京都市上京区にあった色街で、現在は住宅街となっているが、ポルノ映画をかける映画館が現役だったり、住宅の建物にも往時を偲ばせるものがいくつか目に留まる。

物語に関する詳しい話は置いておくが、井筒屋さんの「夕子」に添えられるしおりには”…その可憐で清楚な美しい女性の心を表現した京銘菓”とあるが、「五番町夕霧楼」の夕子は秘めた恋心をもっていたとはいえ娼妓であるし、井筒屋さんのネーミングセンスを理解するのは難しい。
四条大橋を渡って、「北座」にある本店には「五番町夕霧楼」が映画化したときのポスターも飾ってあるが、艶っぽくて完全に店の中で浮いている。
おそらく水上さんに公認をいただいて商品に命名をされた当時は、今より性的な描写に対してずっと寛容だったのだろう。
正直なところ、作品が絶版で書店では手に入らないのがいまはむしろ救いになっているような気がする。

ところが、お店の中にポスターを確認したその日に、井筒屋さんには餡入り生八ツ橋の元祖とされる「夕霧」というお菓子があることを知った。
南座の歌舞伎鑑賞のお土産として考案されたもので、二つ折りの編笠を模して、その模様の刻印もされた、手の込んだお菓子だ。

夕霧は歌舞伎の演目に登場する夕霧太夫に因んだもので、江戸時代に京都の島原で太夫となり、その後大阪・新町に妓楼とともに移り、当地でも名を馳せた実在した人物である。
太夫の死後、その愛人とを主人公とする作品が歌舞伎や浄瑠璃でかけられるようになったそうで、どこか水上勉の作品に通ずるものがあるような気がするし、「夕霧楼」や「夕子」の名前はこれに因んでいるのかもしれない。
そう考えると、井筒屋さんが「夕子」を作って売るのは腑に落ちるのである。