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京都のえべっさん

(訪問:2016年1月11日)

京都えびす神社は、縄手通(大和大路)を挟んで向かいにある建仁寺の守護として、栄西禅師が自身の故郷の岡山から迎えたえびすさまで、西宮や今宮のように海との縁から祀られたえびすさまとはちょっと事情が違うが、参詣者が笹をいただいて帰るとか、壁を叩いて耳の弱いえびすさまに願掛けの念押しする、十日戎詣りによく知られた習慣はここが発祥と考えるのが妥当な事情がある。(詳しくは過去記事を参照。)

とくに京都のえべっさんらしさを感じるのがのこり福の日で、近隣の祇園町から昼に、宮川町から夜に舞妓が来て笹配りをするところだろう。

お笹は巫女が舞う神楽で祈祷される。
お笹には御札(お守り)がついた状態でお金を出して授かる。

のこり福の日は舞妓さんのひとりから手渡しでお笹と、この日だけお餅をもうひとりからひとつ授かる。

お笹を授かれば境内奥、西の出口になる鳥居のほうへ誘導され、笹飾りを求めることになる流れだが、今宮戎しか知らない人は、お笹をお金を支払っていただいているのに、さらに子宝にお金を支払うことに何だか承服しがたいものを感じるやも知れない。
まさに「祇園価格」のお笹というべきか。

西宮のえべっさん

(訪問:2016年1月10日)

えびす総本社を名乗る西宮神社。
厳密に言うと、ヒルコ神系の総本社になる。(島根県の美保神社がコトシロヌシノミコト系の総本社を名乗っている。)
イザナギノミコト・イザナミノミコト夫婦によって海に捨てられたヒルコが西宮の浜に流れ着いたという伝説がある。
イザナギノミコト・イザナミノミコト夫婦の第一子なのだが、西宮神社では日の神(アマテラスオオミカミ)、月の神(ツキヨミノミコト)の次に生まれた「神」として「戎三郎」の異名がある。

そもそも西宮神社は市内の北の山手のほうにある廣田神社の摂社だったが、えびす信仰が室町時代廣田神社の主祭神を上回ってしまって、今日に至っている。

今宮戎や京都のえべっさんに通いなれている人には笹飾りする子宝が境内に居並ぶ立派な屋台店(「吉兆店」)で買うことに、あらためて本家のスケールの大きさを感じるだろう。

拝殿入口でやぐらに上った神職にお祓いを受ける。

エビスに参ればダイコクに参るのはどこでも皆お約束のように考えるようで、境内には大国社があり、本殿を詣ったあと併せてこちらに詣られる人も多い。

お笹は巫女から求める。
小ぶりのプラスチック製だ。

「吉兆」は拝殿前のエビ色のれんの「吉兆店」で求める。
「吉兆をください」と言わないと見つからないかも知れない。
西宮に参詣される方で「吉兆」という小宝自体をご存じの方は少ないような気がする。

また西宮神社にはえびす神のもう一つのお姿の「荒ぶる魂」が別に「沖惠美酒(あらえびす)」として祀られており、「えびすさまの両まいり」をするようすすめられている。

 

京都がそんなにええもんか

最近は外国人観光客の激増で足の踏み場もないくらいの勢いで、むしろ日本人が敬遠しはじめているとさえ言われる京都だが、それでも京都好きを標榜する日本人は多く、なにかと京都を紹介するTV番組や雑誌は非常に多い。

数日前であるが、京都のもので身の回りを埋め尽くし習慣を踏襲し伝統大好きな関東住まいの方のSNS投稿で、「京都の老舗の接客はやはり優れている」との内容にどうも引っかかって、大人げなく反論コメントをしてしまった。

そもそもあくまでも観光目的でしか京都に来ることのない首都圏や他の地方の人と仕事や買い物などの日常生活のなか、その日のうちに京都を行き来し、その逆で京都から通ってくる人と出会うことも少なくない関西圏の人とあきらかに京都の印象に差がある。

つまり観光意識の人が見ている京都は非日常で、上述のメディアに紹介される脚色もされた麗しい京都でしかないからだ。
京都好きは、そんな京都は何もかも日本の最上級で、醜い落ち度などあろうはずがなく、メディアに紹介される風習こそが日本人が守っていくべき伝統だと信じて疑わない。
歴史ある古い場所も、食事をする場所、最近できたような店にいたるまで、関西や地元京都の人でも知らないような場所や知識すらもっていたりする。
日本にある少し古くからあるようなものや習慣は全部京都発祥だと思ってさえいて、これに関しては地元の京都人にさえ少なからずおられる。

日常生活に行き来も人との交流もある京都に関西の人たちは悪口を言わないまでもずいぶん得な扱われ方だという感覚はあるが、 京都は地続きな場所で、京都人は隣人以上の何者でもない。
良いところも悪いところもある。
僕はメディアには対象的と揶揄されるがわの大阪の大阪人だけれど、その大阪の笑いモノや嫌われモノの印象も京都同様に首都圏メディアが作り上げたもので、自虐もネタにして笑える大阪の人の特異な寛大さがそれを許しているだけである。
(井上章一さんの著書にもあるが、ノーパン喫茶や、そもそもスケベな色事に関する文化は京都のほうが発祥だったりかつては先を行っていたものなので付け加えておく。)

観光意識の京都好きの人には、京都の人たちの全国でどこにでも見られるような普通の人付き合いや生活に関心が及ぶことはまずありえないし、その夢を壊すような反論をしても意味がないのかもしれない。

半世紀大阪で生まれ育って来た僕は、夜はいまの奈良とそう変わらない真っ暗だった京都の市街をなんとなく憶えているし、申し訳ないが僕の実家は商売をしていたこともあるけれど、 当時の京都のお店では正直行き届かないと感じる接客やサービスは一度ならず、それも老舗新参にかかわらず、度々家族で受けるところは少なからずあった。

名の通った料理屋さんはどうだったか知らないが、今は一般客もそれなりのお金を支払えば食事ができるが、昔はそんな場所は一般客の行くような店でもなかった。

昔ながらに一見客より地元の付き合いの長い客を大切にする風土があったからで、おそらくそれは京都に限らずあったろうに思う。
でも京都には他所を知らないこともあるがうちの家族は悪いイメージを残してきた。

関西以外の人たちがいだく麗しき京都のイメージは、昭和40-50年代から、JRの前身の国鉄にはじまった広告や、女性ファッション誌がこぞって京都を特集するようになってからだ。
「京都慕情」や「女ひとり」のような歌謡曲の流行も後押しした。

最近は京都でどこのお店に行っても、大阪や他の地域で感じる印象とまったく変わらなくなった。
観光客、とくに女性の観光客が増えたことや、他府県に本店のあるお店や全国チェーン店の進出で、必然接客やサービスも全国レベルに向上していったのだろう。

「京都の老舗の接客はやはり優れている」と言われるまでになったと、亡くなった両親兄弟に伝えておきたいものだ。

鼻で笑う気もするけれど。

そもそも日本の「伝統」と冠がつくもののたいていは戦後、古くさかのぼっても明治以降のものでしかない。

いまでは当たり前なお正月の初詣も鉄道会社が主導した集客な催しであるし、そもそも神社もお寺も明治までは神仏習合な状態であったのでそれぞれでの振る舞いやしきたりがいまのかたちに整備されたのは神仏分離以降である。

歴代の天皇も法名を得られて仏式で葬られた方は少なくないし、現在の神式で執り行われる数々の皇室の行事も古代にはあったのかもしれないがいまのかたちになったのはやはり明治の頃で、新政府が天皇の権威付けに勤しんだ結果である。

「和食」は京都こそが発祥で昔は皇室や貴族が食べ親しんできたものやその習慣が京都の和食になっているとすら思っている人は少なくないと思うが、そもそも内陸で魚もとれない京都と、北前船で北海道から昆布が入ってきたり、海路が使えて鮮度の高い食材が集まる、豊臣時代からの商都大阪で料理の技術はどちらが長く上回っていたかは言うまでもないだろう。

かつては板前を大阪から迎えた京都の料理屋さんは腕は確かと評判になり、当の板場の地元の料理人たちは戦々恐々としていたのである。

私たちは日常、食卓に上がるハンバーグやトンカツを「洋食」とは言わない。
「洋食」という言葉には明治の文明開化であるとか、レトロなイメージすらおぼえる特別な響きを感じる。
これに対して私たちは日本人なのに「和食」という言葉は普通に使う。
つまりは私たちの生活において今や洋食の食事がスタンダードで、そもそも日本人が毎日普通に食べてきた献立をむしろ「和食」と呼ぶようになった。
かつては和食が普通だったから、欧米風の献立を「洋食」という言葉ができたのである。

日本の「伝統」という言葉は、戦後、そういう日本人の生活の欧米化に対して意識して使われるようになったものであることは疑いない。

京都を華やかに彩る芸妓舞妓も、正直なところ「伝統」という傘を外してしまうと、夜の水商売という位置づけではバーやキャバレーのホステスに完全に後塵を拝するようになり、「伝統」を標榜して、彼女たちと真っ向勝負はしないことにしたのである。
日本の「伝統」を守っていくことが日本らしさや、日本人のアイデンティティを失わないためにも必要であることは理解するが、「伝統」を冠にしないと、便利で親しみやすい欧米の仕組みに上書きされて、生き残れないものはごまんとある。

しかし、そういうのちに「伝統」を冠するような古刹と芸能や技術は、遷都で賑わいを失う京都の活力として、大阪にも対抗心をもって、明治の京都で、大河ドラマ「八重の桜」でも登場した槇村参事や山本覚馬らがとりかかり、以来行政主導で整理をして保護継承に努めたから今がある。
芸舞妓がいるような花街も京都がオリジナルではなく、全国各地にあったし、いまもそれぞれの地でみんな頑張っておられるが、特に京都は地元のイメージになるほどに力を入れて保護してきたのである。
それは大したものである。
隣県の奈良がなにか京都がやっていることのマネをしても京都のようにはいかないのは根本の次元が違いすぎるからだ。

他人様がどう考えるかは自由であるが、でもそれぞれの地元にも誇れるものはあるし、京都のものに見劣りするものでもないので目を向けてほしい。
それを守っていけるのは地元の人たちしかいない。

なんでもかんでも伝統だからと縛られたり、珍重することにも少しは疑いをもったほうがいい。
そういうことに固執することが、迷いや不安がなくて快適に感じる人が多いこともわかってはいるが。

大阪人のコテコテとこいさんのゆくえ

僕はコテコテの大阪人と名乗るのも呼ばれるのも嫌で、
その言葉の源となったお好み焼やたこ焼が大阪の食文化の代表として語られるのも嫌。

僕なら大阪の食べ物なら、かやくごはんとか、おかかにコブだしのきつねうどんとかを選ぶ。
(ただし粉もんが嫌いなのではないので誤解なく。)
僕より上の世代の大阪の人たちなら確実にそういう人はいると思う。

そもそも大阪は薄味の食文化でソースギトギトの粉もんは対極な存在だ。
どこで大阪の食べ物のイメージは転換してしまったのか。

それはもう一つの疑問と符合する。

江戸から明治、大正時代を舞台にした大阪のドラマや舞台劇に登場する、こいさん、いとはん、ごりょんさん、典型的な、ちょっと昔の大阪を描く上で欠かせない登場人物だった彼女たち、商家の家族って今はどこに住んでいるのだろう。

関西では呉服店は京都に次いで兵庫が多い。阪神間に大きな需要があったからだ。

そう、芦屋マダムらの御用達。

じつはかつてのいとはんやごりょんさんは芦屋マダムになっている。

近代、商家は奉公人は自宅通いになり、店主の家族は芦屋や大阪市内の帝塚山に居を移し、仕事場だけを残したのである。

ビジネスの欧米化と東洋のマンチェスターと称される工業化が進み、空気の悪くなった大阪から店主は家族を芦屋などに邸宅を構えて移したことで、現在のブルジョアな芦屋界隈が出来上がる。

大阪人が妙にあの地域を憧れの目で見てしまう理由がそこにある。

汚い空の大阪に会社や工場勤めで通う河内や和泉住まいの労働者たちの職場や出先での会話が、秀吉の時代から伏見から移り住んだ商人たちの京ことばに由来する船場言葉を上書きしていく。

戦後はさらに西日本や遠い地方から働き口を求めて大阪に人が集まり、庶民文化が混ざっていく。

富裕層が大阪の中心からいなくなることで歌舞伎や文楽のようないわゆる芸能はお笑いなどの大衆芸能に追いやられ、南地や北新地といった芸妓がいた花街がキャバレーやバーといった大衆向けな店に凌駕されていく。

労働者は決して裕福ではなかったから、みんな「安くて、良いモノ」を買い求めて自慢するようになり、手取り早くおなかが膨れる粉もんが人気するようになる。

コテコテの大阪人は意外と新しい、大阪の島之内に祖先をもたない外来の人たちが作り上げたイメージで、おそらくは吉本の芸人さんたちらがTVやメディアで広げて定着させてしまったのである。

えべっさんの正体

京都・建仁寺と、縄手通(大和大路)を挟んで向かいの京都えびす神社との関係は、聖徳太子の時代もそうであったように大寺の建立の安全を祈願してすぐそばに神社が先に建立される例もしかり、その後も長く明治まで神仏習合時代であったため、特段珍しいことではないが、その由来となる伝説では栄西禅師が中国に渡航するときに嵐に見舞われ、エビス神の導きにより、無事目的地に到着したということで、建仁寺の建立に合わせてえびす神社がこの地に造営されたのだそうである。
この神社の事代主神は御分霊で、もとは栄西禅師の出身地の岡山からもってこられたもので、ゆえに他のえびす神社に見られるように、現在や昔の漁村であったり、かつて市が立つようなところといったロケーションとは無関係に存在している。

そもそもエビス神とは何者でいらっしゃるのか。
えびす神社各社により、御祭神が蛭子神であったり、事代主神であったりということは先にも述べたとおりであり、神社によっては時代が下がって相互に置き換えられてしまったところもある。
七福神では唯一日本の神といわれるのに、エビスという名称自体は外国人をさしていたり、まったく意味不明だ。

ただ、栄西禅師がエビス神の導きで無事に渡航できたこと、全国の漁村近くに祀られることから、海の幸、海の恵みをもたらす何かであったことは想像できる。

ある書によると、
それはイザナギ・イザナミの最初の子にして未熟児がゆえに海に流されたヒルコの伝説を手がかりになるが、おそらくはイルカのような大きなサイズの海洋生物か、人の水死体で、魚たちがこれを餌にして大量に群がっていたところに、漁師たちの船が出くわして、結果豊漁となったので、この何かの水死体を漁村に持ち帰って、埋葬して神様として讃えたのではないだろうかということだそうだ。
だからそもそも蛭子神か事代主命かはあと付けのプロフィールでしかないので、途中で置き換えることも躊躇がなかったのではないかと思われる。

推測であるが、栄西禅師はそのまさに魚が群がっているところに遭難した船が差し掛かり、漁師の船が来て救助なり沖まで誘導したのではないだろうか。
あるいは捜索中の人の水死体に遭遇して、捜索の船にともに救助されたのかもしれない。

関西と近畿

最近は当地にいて「近畿」という言葉をとんと聞かなくなった。

おそらくは関西国際空港が開港したあたりから始まって「近畿」は関西に上書きされた感じだ。

かくいう僕もその関空が開港の時から数年職場だったのだが。

もともと「畿(=帝の住まいするところ、皇居、みやこの意味)」のほうから見て、『不破の関(岐阜県)』『鈴鹿の関所(三重県)』『愛発の関(福井県)』の関所より東を「関東」とよんでいたのであって「関西」という呼び名はなかった。

「関西」という呼称は鎌倉時代からあったらしいが今のような2府4県よりは西日本まで広いイメージだったり、そもそも現在の“関西”あたりの人たちにとって自分が住まいするところは中央であり、”上方”だと思っていたので、西に居るという感覚は全然なかった。

「近畿」という言葉が無くなるみたいなことを危惧したり残念に思うのは僕の個人的な性格によるものもありそうだが、じつは積極的に「関西」に置き換える理由が、まさに関西国際空港あたりに端を発している。

というのは英語でKinkiは「異常性欲(kinky)」を連想しやすいのだそうだ。

これに配慮して、近鉄はこのタイミングであったかは調べていないので定かでないが、Kinki Nippon Railway を Kintetsu Railway に、近畿大学は近年Kinki University をKindai University にあらためている。

この先はインバウンド経済を推し進め、雇用も外国人頼みで、オリンピックや万博など国際行事も続く日本ゆえにここは致し方ないだろう。

南海電鉄が戦時に近鉄と合併していた経緯で戦後に球団名に車両の”車輪”にちなんで「近畿グレートリング」としていたのを進駐軍らの欧米人からGreat ringが”偉大なる女性陰部”に聞こえて嘲笑されていた話は野球ファンには有名な歴史物語であるが、近畿もKinkyならさらに救いようがない名前だったということだ。

“わが藩は”などと誰も言ってなかった

先頃、といっても昨年だが、”西郷どん”の放送も終わったところであるが、

ちょっと調べたところ、じつはなんと江戸時代に”藩”という名称はなかったのだそうだ。

明治新政府が版籍奉還で各地の大名の所領に新たにこれを治める”知藩事”を立てたのが、行政の歴史上はじめて使われたということで2年後の廃藩置県で短い役目を終える。

では、何て言ってたかというと、長州藩は”長州”とか”長門国”とか”毛利家”または”毛利”、薩摩藩も同様に、薩摩国やら、島津やらと呼ばれていたらしい。

それぞれを国にしてしまうと日本国の立ち位置がややこしいので、中国で王の所領、つまり天皇の所領を表す”藩”という単位を使うことにしたそうだ。

じつは”幕府”という名称も江戸時代にはなく、つまり室町時代にも鎌倉時代にも使われていなくて、これも明治になって、征夷大将軍による政権を”幕府”としたのだそうだ。

幕府や幕政は”ご公儀”と言っていたようで、藩や藩政も”ご公儀”と言ってたりして、その場合、江戸のほうは”大(おお)公儀”みたいに区別して言ってたみたい。

だから、倒幕も佐幕も、藩政改革も、脱藩も幕末の偉人たちは言ってないし、幕末という言葉すら無いのであって、

“土佐脱藩、坂本龍馬じゃき”

も、そうは言ってなくて、

”土佐の国抜け 坂本龍馬じゃき”

みたいな、なんかだいぶフヌケな感じで言ってたみたい。

戦国時代と双璧で幕末の物語が男性ウケするのは、バクマツ、とか、ダッパン、とか、やたら濁音破裂音の用語が飛び交うさまが、ゴジラとかキングギドラの語感とおんなじで、何せ男子は濁音破裂音大好きなのもひとつの理由ではないかと思うので、それが史実どおりの表現だったらこれほど人気していただろうか。

【祇園祭】”蘇民将来子孫也” – ちまきや茅の輪くぐりが意味するもの

祇園祭のちまきや茅の輪くぐりの由来については

スサノオノミコトが一宿一飯の恩義で蘇民将来に子孫をまもってやるから目印にチマキ(茅の輪)を飾るようにと約束された

という話が備後国風土記にあり、

これが祇園祭のちまきや夏越の祓の茅の輪くぐりのいわれになっているが、

じつは風土記の話をちゃんと文を追って読めば、

スサノオノミコトが蘇民の家で一宿一飯の恩を得て、その帰路に宿泊の願いを無碍に断った蘇民の弟、巨旦への苛立ちで、彼の一族を八つ裂きにして攻め滅ぼすことを思い立ち、巨旦の嫁が蘇民の娘であったことから事前に娘には茅で作ったベルトを腰にまかせておくように伝え、スサノオ軍が攻めこんだときに娘はその目印で一人無傷で保護されたという話なのだそうである。

“蘇民将来子孫也”のちまきを玄関先につけている家庭に加護があるのでなくて、つけているところ以外は善も悪も見境なく皆殺しにするから、結果その家は守られるという解釈が正しい。

しかも気をつけておかねばならないのは、私たちは別に蘇民将来の子孫でもなんでもない。つまりスサノオノミコトをだまして身を守ろうというのだ。バレたらどうなるのだろう…

なにはともあれ祭りに浮かれてないで、ちゃんとちまきを飾って毎年バレませんように、バレませんようにと願うしかないのです。

あーこわ~

(2023/7/6 改訂)

(参考)「蘇民将来と素戔鳴神

今宮のえべっさんは京都出身

大晦日、境内におけらの縄に火を灯しに集まる夜21-22時頃、八坂神社に鯛を抱えた神職と金の烏帽子の一行が参詣する。
大阪の今宮戎神社の福娘たち。
年が明けて正月の十日えびすで役目をつとめる子たちだ。

宵えびすを翌日に控える8日午前、今宮戎神社に、今度は京都・八坂神社から神職と巫女によって御神水が届けられ、そのお水で献茶祭が行われる。

八坂神社と今宮戎神社の相互交流は、今宮のえびすさまは、八坂神社の氏子が大阪の今宮の地に移り住むにあたり、八坂神社の北向蛭子社から勧請されたというという説によるものだそうだ。

その説の真偽は定かではないが、江戸中期に今宮の魚商人が蛤を京で売る利権の交換条件に三若の衆が代理で祇園祭の中御座の神輿を担がせていた時期があることと関係がありそうだ。彼らは”今宮神人”と称されていたそうだ。

演芸と商いの街ミナミの地という土地柄にあり、毎年選ばれた福娘たちが打ち揃い、華やかさと賑やかさで、数あるえべっさんの中でも一番大阪らしさのある今宮のえべっさんはじつは京都の出身なのかもしれないらしい。

11日ののこり福には舞妓ちゃんたちの笹授与の奉仕がある京都えびす神社であるが、花街・祇園町では十日えびすは八坂さんのえべっさんを支持する方も多い。
それは祇園さんの氏子であるがゆえでもあるが、縄手のえびす(京都えびす)について、”縁起が悪い”などという話を聞いたような気がする。

じつはそれは十日えびすの期間は客足を取られてヒマになる、お茶屋やお店の恨み節なのだろう。

多くの信仰を集めるがゆえの話なので縁起が悪いなどということはないから、安心して商売繁昌を祈念しに足を運んでいただきたいたい。

七福神のえべっさんだけが本当に唯一日本代表なのか

七福神の大黒天、毘沙門天、弁財天はインドの神様、福禄寿神、老寿神、布袋尊は中国の神様、唯一 恵比寿 えべっさんだけが日本の神様と言われているが、それにしても異国人を表すエビス(夷)と称される神が日本代表とは違和感ありありな話である。

大黒天が日本の大国主命(オオクニヌシノミコト)が”ダイコク”で結びつくという話はここでは置いといて。

ギリシャ神話に恵比寿神に関わるような部分が見受けられるのだそうだ。

酒神バツコスの別名が”エビオス・エビウス”と聞けば、えびす総本宮の西宮の酒造りを想起するし、彼にちなんでエルサレムはかつてEbusと称され、これが夷の語源である可能性が高いそうだ。

とくに気になるのはえびす神社の主祭神はヒルコと事代主命(コトシロヌシノミコト)の2系統に分かれていること、同一神とみなされていたりするという話を先の投稿に書いたが、そのエビオスは戦争神”カタシロ”としての一面をもつとのくだりがあるそうで、もう無関係な話とは思えない。

奇形に生まれたヘパイストスが海へ捨てられるくだりはヒルコの伝説ほとんどそのままかに読み取れる。

ギリシャ神話にはえびす様の件以外にも、先述のオオクニヌシも、イザナギイザナミに至るまで日本神話(古事記)がこれをなぞっているように思える物語があるようだ。

つまりはえべっさんも日本の神ではなくギリシャ神である可能性はある、と言いたいところだが、日本神話の神様まるごとギリシャ神の可能性も否定できず…回り回ってえべっさんは日本の神様ということになるのかな。

まあ日本代表といっても、ラモス瑠偉や呂比須ワグナーといった感じかな。

奈良時代、古事記の編纂に大陸からの渡来人が天皇が神に通ずる存在であるとする話をギリシャ神話を参考に創作されたかも…ということなのかもしれない。

(参考) ヨセフと大物主… – 新次元の叡智を生きるか
http://trakl.exblog.jp/17939427/