どうでもいいウンチク」カテゴリーアーカイブ

産土に詣る

初詣は産土(うぶすな=自分が生まれた土地)と氏神(現在の居住地)と崇敬(個人的に思い入れがある)の3つの神社に詣るべきなのだそうだ。

だから産土神社として親元(実家)の氏神でよいのだろう(自分の場合は現在地が実家と同じ町内なので産土も氏神も同じ)と思っていたが、それはお産婆さんが家に来て赤ちゃんをとりあげている時代はそれで正しかったが、戦後は産婦人科や病院での出産が当たり前なので、産土はなんと”病院の氏神”になるのだそうだ。

出生した産婦人科医院は現在も存在し、幸いそう遠くない、亡き母の実家があったあたりである。

ということで、平成30年の初詣先として、その産婦人科医院の所在地に基づく正式な産土に詣でることにした。

母の実家があった周辺を歩いたが、子どもの頃に憶えている光景とはすっかり様変わりしていた。

さて、産土にはすぐにたどり着けたわけではなく、隣になる氏子域の神社の社務所にうかがって解った。

そちらの神社は彌榮と書いて、”やえ”ではなく”いやさか”と読む。

祝詞にある”万歳”に近い意味の言葉だが、”いやさか”が転じて”やさか(八坂)”となるのは言うまでもない。

京都の祇園町周辺にも”弥栄”と書いてヤサカの名前の場所や企業がある。

つまりはかつては牛頭大王、のちにスサノオノミコトを祀り、社紋も祇園さんだった。

産土である神社は病院の所在地から少し距離があるような気がしたが、周辺の村の神社をたくさん合祀していて、それなりに大きな神社だった。

かくして生まれてこのかたの不敬を本殿に詫び、村の鎮守を祀った小祠にも手を合わせることができた。

現在の職場のある天理の石上神宮の小祠もあったり、家族と長く崇敬してきた神社の分霊もあり、何やら縁を感じる。

氏神と産土のお守り。

来年で12年、干支に因んだ社寺の初詣も一段落するので、歳も歳なので”崇敬”も一つ決めたいところである。

春日若宮おん祭

15日から奈良は春日若宮おん祭。

春日大社の四神が御旅所に来られるのではなく若宮の神なのはそもそも春日の山にいらして民があがめていた神は若宮だったからだろう。

四神はあとから祀られた。

おん祭は山も鉾も地車も無いが若宮の祭神が山から降りて民に近い御旅所にお出ましになるのはそれら後世の祭の原型。

おん祭の式次第に流鏑馬や駆け比べがあるのは室町期以前は神社に神職者以外に自警の武士団があり、その頃から後世も奈良に武家があってその役にあって、日頃の鍛錬を披露する機会だったなごりだろう。

応仁の乱は興福寺の派閥争いにも連なり、大和の武家どうしの対立をももたらして京都だけでなく奈良も戦場になっていた。

奈良がのんびりのほほんになったのは江戸時代から。

奈良は江戸時代は幕府直轄の”天領”だったので、薩長のような”地方”の苦労もなく、お上に逆らわずで、そのせいで今なお多くの県民には行政まかせ、県や市がみんななんとかしてくれるという意識があるようだ。

ぼく、かりんとう。

日本でハロウィンを意識するようになったのはいつだろう。

思い返すと、20代になった姪っ子が幼児のときにランタンのバケツに入ったお菓子をあげた思い出があるので調べてみたら、案の定、モロゾフが1976年に季節商品として販売を始めていて、これが流通では日本最初のようだ。

ディズニーランドやUSJによる空間的な演出が近年の仮装の習慣につながっているのだろう。

僕個人の一番最初のハロウィンはNHKでやっていたPEANUTS(スヌーピー)のアニメだ。
ルーシーの声はうつみ宮土理、チャーリー・ブラウンは谷啓だった。
Trick or Treat と友達とお菓子をもらってまわるが、チャーリー・ブラウンはかりんとうばっかりもらう。

「あたし、クッキーもらったわ」
「ぼくはチョコレートだよ」
「ぼく、かりんとう」

可笑しいオチでしたが、英語のもとの音声を聞くと、”I got a lock.”
なんと彼はじつは石ころをもらってる。
こどもに石ころを与える大人の神経も、それを笑う国民も、アメリカ人のことはさっぱり理解しがたい。
翻訳した日本人の優しさとセンスの良さを感じる。

井筒屋さんの「夕子」というお菓子

京都のお土産の生八ツ橋に、井筒屋八ツ橋本舗さんの「夕子」という商品がある。
昔はTVCMも熱心にやっておられたので、中高年やそれ以上の方にその名前にはそれなりになじみもあるだろう。

扱いのある店の前を通るたびに”水上勉「五番町夕霧楼」に因む京銘菓”(箱書き)が目にとまり、気になりだして読んでみようと思った。
ところが、絶版しているのである。(現在も書店の扱いのある全集には収録はされている。)
そうなると、性分で余計に気になって探し出して読まないと気になって仕方がなくなって、Amazonから中古品で入手する。
(入手するまでに下調べをするに、三島由紀夫の「金閣寺」に対するアンサー作品とあるので、そちらも先に読んでしまう。)

案の定、遊郭の娼妓の物語であった。
五番町は京都市上京区にあった色街で、現在は住宅街となっているが、ポルノ映画をかける映画館が現役だったり、住宅の建物にも往時を偲ばせるものがいくつか目に留まる。

物語に関する詳しい話は置いておくが、井筒屋さんの「夕子」に添えられるしおりには”…その可憐で清楚な美しい女性の心を表現した京銘菓”とあるが、「五番町夕霧楼」の夕子は秘めた恋心をもっていたとはいえ娼妓であるし、井筒屋さんのネーミングセンスを理解するのは難しい。
四条大橋を渡って、「北座」にある本店には「五番町夕霧楼」が映画化したときのポスターも飾ってあるが、艶っぽくて完全に店の中で浮いている。
おそらく水上さんに公認をいただいて商品に命名をされた当時は、今より性的な描写に対してずっと寛容だったのだろう。
正直なところ、作品が絶版で書店では手に入らないのがいまはむしろ救いになっているような気がする。

ところが、お店の中にポスターを確認したその日に、井筒屋さんには餡入り生八ツ橋の元祖とされる「夕霧」というお菓子があることを知った。
南座の歌舞伎鑑賞のお土産として考案されたもので、二つ折りの編笠を模して、その模様の刻印もされた、手の込んだお菓子だ。

夕霧は歌舞伎の演目に登場する夕霧太夫に因んだもので、江戸時代に京都の島原で太夫となり、その後大阪・新町に妓楼とともに移り、当地でも名を馳せた実在した人物である。
太夫の死後、その愛人とを主人公とする作品が歌舞伎や浄瑠璃でかけられるようになったそうで、どこか水上勉の作品に通ずるものがあるような気がするし、「夕霧楼」や「夕子」の名前はこれに因んでいるのかもしれない。
そう考えると、井筒屋さんが「夕子」を作って売るのは腑に落ちるのである。

そもそも「京都=お茶」というわけではないのだが

最近の抹茶スイーツブームにひっぱられて、茶の湯そのものが京都発祥かのような誤解をするが、

茶の湯に関しては、堺、京都、そして奈良はいっしょに同じ時期に、それぞれ地の茶人が交流して、三者で育ててきた文化であり、言うならな発祥は大阪・奈良・京都の広域だ。
京都と茶や茶の湯と強くイメージで結びつけるのは表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が京都に居を構えてきたからと、茶産地の宇治があるからだ。

とはいえ、千利休は堺の商人である。

奈良に関して言えば、戦国・桃山の時代に、信長に攻め滅ぼされた松永久秀が、信長に茶釜をとられるのが嫌で打ち壊したとか、豊臣秀長は兄・秀吉のような絢爛豪華な茶室を好まないでも御茶会を頻繁に行なっていた。

奈良で有名な「ならまち」や今井町は茶の湯のたしなみのある町衆が屋敷を作り、町をつくっていて、茶の湯の考えが色濃く反映されているらしい。
ならまちにもかつては茶人たちの家があり、いまは屋敷も壊されたりし、そのお墓も程遠くないところにあるようだが、そのことは誰も気にとめなくなっている。

今井町にいまは茶室のあるところはないが、堺の大仙公園にある茶室は、そもそも今井町にあったものが、一度神奈川県に移されて、堺市民用として譲渡移設されたもので、今井町にそのままあれば重要文化財以上の価値はあったとか。

茶の葉に関しても、先にも書いたが、宇治の茶は鎌倉時代に栄西が中国より持ち帰った茶の種に由来すると言われるが、奈良時代に空海が持ち帰った茶の種が月ヶ瀬に植えられたのが大和茶発祥とする説もあり、じつは宇治の茶産地と月ヶ瀬はおんなじ山の北斜面と南斜面。

そもそも近年まで「宇治茶」は静岡のそれのような単一県産地のお茶ではなく、ブレンドされて味を極めてきたお茶で、いまでも京都では茶の銘柄や、京都の甘味処に「月ヶ瀬」の名前があったりするのも、つまりはそういうことで、宇治茶と大和茶を区別すること自体、そもそもはかなり無理がある。

余談だが、静岡は日本一の茶産地であるが、その歴史は明治時代になって、仕事がなくなった多くの士族(武士)のために、静岡の、富士の火山灰でやせた土地でも育つ茶栽培を奨励したのが始まり。
広大な土地で、そういう事情から就労するひとが多かったのだ。

最近は抹茶を使ったお菓子や茶関連商品は「宇治」がつかないとちっとも売れないような時代になっているが、
べつに京都に独占されるものでないし、そもそも茶樹自体ほぼ単一品種なのだから市販加工品にいたっては味にあきらかにわかるような大差があるとも思えない。
他府県の業者、メーカーにもがんばってほしいものだ。

(参考) 奈良 大和路 茶の湯逍遙 (奈良を愉しむ)

下がり藤、五七桐、葵の御紋

我が家は浄土真宗本願寺派、京都でいう「お西さん」の門徒なのだが、親戚も多い、職場もある奈良に通っていて、春日大社の「下がり藤」社紋が、浄土真宗の「下がり藤」の宗紋と似ているのは何かしら縁があるのか気になっていて、法事の機会にお越しになったお坊さんにうかがったもののご存じなかったので、さすがに自分で調べてみた。

それによると、浄土真宗本願寺派の「下がり藤」については、明治31年、本願寺第22代宗主・鏡如上人(大谷光瑞師)が九條籌子(かずこ)さんとご結婚され、明治36年5月、鏡如上人の伝灯報告法要の時に九條家の「下り藤」を宗紋として採用されたのが始まりだそうで、「九條家」というのは、摂関家の一、つまり藤原氏の末裔。
またそもそも親鸞上人ご自身も藤原氏につながる日野家の出身なので、藤原氏の氏祖神の春日大社の「下がり藤」を使うのは何の不思議も問題もないのである。

ちなみに九條家の菩提寺である東福寺も浄土真宗ではないが九條家の「下がり藤」を寺紋としている。

話は変わるけれど、日本政府にも紋章があって「五七桐(ごしちのきり)」を採用している。
政府、首相の記者会見のときの演壇や、東京や京都の迎賓館などでも見かけるものだ。

「五七桐」といえば思い出すのは太閤秀吉である。

先頃、京都の醍醐寺にお参りしたときに、伏見城から移築したとされる門に大きな金塗りの「五七桐」が付いていたので、寺紋にもなっている「五七桐」について、職員のかたにうかがってみると、確かに醍醐寺は秀吉の厚い支援をうけてきたが、「五七桐」はそもそもは皇室をあらわす菊紋に次ぐ”副紋”で、とくに皇室に対して功績のあったものに下賜されるもので、醍醐寺の他にも奈良や京都の寺社の紋章になっているところもあるのだそうだ。

その関係から、一般市民は「五七桐」ではなく「五三桐」を使用するような習わしになっている。
(今更だが、五七桐とは真ん中の花が7、両端が5の花という絵柄、五三は真ん中が5、両端が3。また法務省などは「五三桐」を採用している。)

秀吉もしかり、かつて社寺は日本の政治に大きく関与していたこともあり、「五七桐」は政治を司る立ち位置という意味があるようだ。

ちなみに浄土真宗本願寺派も一時期「五七桐」を宗紋としていた時期があるようだ。

京都の上賀茂神社に徳川家の「三つ葉葵」の紋がついた駕籠(かご)が現在にも保存されていて見ることができる。
上賀茂、下鴨の両神社の社紋は「ふたば葵」であるが、徳川家の「三つ葉葵」とはじつは無縁ではない。
その昔、遠江に下った賀茂氏と徳川家のもとになる松平家は親しい関係で、当地の賀茂神社の氏子であったがゆえに「ふたば葵」から「三つ葉葵」の家紋を考案したとされている。
「三つ葉葵」は本多家から譲り受けたという説もあるが、賀茂氏との関係が浅からずであったことには違わないようだ。
NHK大河ドラマ「真田丸」で家康が「ふたば葵」を散らした裃を纏って登場しているシーンがあった。
どうやら、この史実にならったようで、なかなかと感心した。

黒留袖とだらりの帯

母が遺した黒留袖についている紋が我が家のいわゆる「家紋」と違うもので、母の実家の「家紋」とも違うことには母の生前からちょっと気にはなっていたが、長くその理由は考えたことがなかった。

これを「女紋(おんなもん)」という。
とくに関西から西日本の風習として残る、母から娘へ、婚家へ婚家へと斜めにまたいで受け継がれていく家紋である。


(引用 府中家具センター)

ところで、京都の祇園町などの舞妓が締めている帯「だらりの帯」の裾には家紋が織られており、これは舞妓が所属する置屋(おきや)さんの紋で、昔は年端のいかぬ女児から舞妓になったため、迷子になっても置屋さんに連れて帰っともらえるように帯に紋を入れたなどの由来が語られるが、いくつかの置屋さんが同じ紋を使っている。


Maiko_20170409_49_1 / Maiko & Geiko

それはなぜかというと、まず置屋さんについての説明から。

置屋はいまは花街ではすべて”屋形”と呼ばれているのではないかと思うが、じつは”置屋”と”屋形”は少し異なる形態なのである。

”屋形”はそもそも”自前(じまえ=独立した)芸妓の家”という意味で、”屋形”の女将は現役または元芸妓ということになる。“置屋”の女将には妓歴がない。
それゆえに“置屋”の女将は所属の芸舞妓に”おかあさん”と呼ばれるが、“屋形”の女将は芸舞妓と”姉妹”になるので”おねえさん”と呼ばれるのが普通。(”おかあさん”と呼ばせているところもあるが)

“屋形”には母屋、分家の親戚関係のところがあり、お見世出し(おみせだし=舞妓としてデビューすること)した屋形から、自前芸妓になったのちに、自ら新しい屋形を興したときには、育った屋形の紋を引き継ぐ習わしになっている。

つまり、屋形の紋もまた女系で引き継がれていく「女紋」なのである。
屋形にはお茶屋さんを兼業でされているところもあり、そのお茶屋さんは男紋を使っている。
男紋は同じ家の中で、家長の男子が受け継いでいく。
暖簾分けして、同じ名前で支店を出す流れは、まさにこれにあたる。
ここまででお気づきかと思うが”置屋”の舞妓のだらりの帯には男紋が入っている。

祇園町の秋の行事である「かにかくに祭」は毎年同じ紋の帯をした芸舞妓が参加しているのは、おそらくはその紋をかかげる屋形の母屋になるところがずっと大事にしてきた行事なのではないかと思っているが、詳しいことをご存知のかたがおられたらおしえていただきたい。

奈良の置屋さんは常置の仕事の場として、支援も受けてこられた菊水楼さんの紋を帯に入れているが、兼業のお茶屋さんには別の家紋があり、これもいわれこそ違えど、女紋ということになるだろう。

僕には姉妹がいない。
母がこの家に持ってきた女紋は、もう誰にも引き継がれないままここで終わる。
なんとなく寂しいものだ。

以下の動画では、祇園町の置屋のおかあさんが舞妓の帯の紋を「女紋」と紹介されている。

京都祇園 舞妓さんの衣装拝見 ~解説:お茶屋さんのお母さん~ (TV 京都きもの市場)

※ 2024年2月に改訂。

西宮、今宮の廣田神社、えびす神社

今宮戎神社の北に廣田神社があるのだが、えべっさんの北の方角に廣田神社があるのは西宮と同じ構図なのは興味深い。

今宮戎神社は祇園・八坂神社の蛭子社から八阪の氏子が今宮の地に分祀・勧請したことにはじまるとの説があり、これにちなんで、前年の大晦日に今宮戎の神職らが福娘たちとともに八坂さんに鯛を奉納し、翌1月8日、今宮戎の献茶祭に八坂さんから御神水が届けられることが続いているそうだ。

西宮、今宮の廣田神社、えびす神社の創建はそれぞれ不明であるが、平安時代にはえびす信仰があり、西宮えびすは廣田神社の摂社から発展した経緯があり、今宮は西宮にならい、先にあったか同時であったかはわからないが、廣田神社に八坂さんからえびす様が祀られたのではないだろうか。

それぞれもともと漁師浜で、西宮は酒樽を積む港になったこと、大阪も「天下の台所」として海運が盛んになり、豊漁・海上安全の神様が商売繁盛の神様に転じたことは想像に難くない。

創建に関しては西宮のほうが今宮よりは先のような気がするが、しかし現在のような賑やかな十日えびすについては、西宮神社はえびす総本社と称されているが、祭られているのはヒルコ神で、今宮の事代主命とは別の神様なので、そもそも上下関係はないし、京都えびすを含めて、比定できないとことだと思う。

まあ、ほぼ同時期というしかないだろう。

ウチの家業はお茶屋(茶葉売るほうの)です

宇治茶が純粋に”京都産茶葉”製になったのはここ10年くらいの話である。
原因は国内最大産地で茶業界人口が多い静岡が”静岡茶”を純粋県内産のブランドにしたいがゆえ、数で業界のルールを押し切って作ったからだ。

これに京都宇治の茶業者は最後まで抵抗していた。
というのは、今でこそ流通している日本茶は、ほぼすべて”やぶきた”という品種で、正直どこの産地のお茶も飲んで差がはっきりわかるようなものではなくなっているのだが、そもそもお茶は合組(ごうぐみ=ブレンド)が当たり前で、とくに宇治のお茶屋さんはさまざまな産地の茶葉を合組し、それによって独自の味わいを目指していたし、また産地域に関しても、宇治茶の茶畑は奈良の”大和茶”とおなじ山の南北ウラオモテで、ぶっちゃけおんなじだった。

奈良の”月ヶ瀬”という地名は宇治茶を指す異名で、現にそういう名前の甘味処が京都にもある。

前置きが長くなったが、僕は親父の代まで茶葉を扱うお茶屋さんで、先祖は月ヶ瀬あたりの畑で摘んだ葉を奈良まで大八車で運んできて製茶して商いをしていた。

そしてその製茶の多くを宇治方面におさめていたのである。
それがあるとき、宇治のお茶屋に品質が悪いなどと言いがかりされて、法外に安値で買い叩かれ、うちの家業は大きく傾いて、小さな商いしかできなくなったと、こどもの頃、高齢な親戚から聞かされた。
なんか、よく耳にする宇治茶の有名店のような名前だったような気がするがはっきり憶えていない。

なんにせよ、うちがおさめたお茶の品質がホントのところどうだったかわからないし、その頃の先祖の店主が元林院やら祇園町で芸妓と遊び呆けていたみたいな、なんか子孫の誰かに似てるような感じだったので、まあ、その名前もよく憶えていないどこかのお店を恨むとかはまったくないのだけれど…

じつは、えべっさんは耳つ◯ぼではなかったりする。

「えべっさんの耳、つ○ぼ」というはやしことばが、関西には昔からあって、
十日えびすの日のえびす神社の参詣者には神前でお賽銭をして拝んだあと、
拝殿の横や裏手の壁板を叩いて、耳の遠いえびす様にと、お祈りの念押しされる習わしに従うひとが多い。

今宮戎神社では、いつ頃からか、木の板壁が激しく傷むので、銅板のようなものを貼って、むしろ音もよい感じになるような仕掛けに変えてある。

京都えびす神社も拝殿にも、「左へおまわりください」と板のある横の路地へ誘導する但し書きがある。

そもそも、えびす様としてまつられる神様には耳が遠いという神話そのものがない。
いわれとして、一番しっくりくるのが京都えびす神社のもので、
江戸時代、その当時も現在の建物と変わらないのだが、現在「叩き板」のある拝殿の横は、格子の壁になっていて、そのさんの隙間からお賽銭を押し込んで叩く参詣者が多くなり、
それでは壊れてしまうので、板張りをしたところ、みんな板を叩くようになったのがはじまりで、
他の地域のえびす神社でも拝殿の壁板を叩く習わしが伝播したということである。

神社側から、えびす様は耳が遠いなどとは一言も言ったことがないそうで、町衆の誰かが理由をこじつけて広まったことのようである。

神社としてはやめてくれとはいえないので、むしろ叩いてもらえるように仕向けられたというわけである。