僕は”コテコテの大阪人”と名乗るのも呼ばれるのも嫌で、
その言葉の源となったお好み焼やたこ焼が大阪の食文化の代表として語られるのも嫌。
僕なら大阪の食べ物なら、かやくごはんとか、おかかにコブだしのきつねうどんとかを選ぶ。
(ただし粉もんが嫌いなのではないので誤解なく。)
僕より上の世代の大阪の人たちなら確実にそういう人はいると思う。
そもそも大阪は薄味の食文化でソースギトギトの粉もんは対極な存在だ。
どこで大阪の食べ物のイメージは転換してしまったのか。
それはもう一つの疑問と符合する。
江戸から明治、大正時代を舞台にした大阪のドラマや舞台劇に登場する、こいさん、いとはん、ごりょんさん、典型的な、ちょっと昔の大阪を描く上で欠かせない登場人物だった彼女たち、商家の家族って今はどこに住んでいるのだろう。
関西では呉服店は京都に次いで兵庫が多い。阪神間に大きな需要があったからだ。
そう、芦屋マダムらの御用達。
じつはかつてのいとはんやごりょんさんは芦屋マダムになっている。
近代、商家は奉公人は自宅通いになり、店主の家族は芦屋や大阪市内の帝塚山に居を移し、仕事場だけを残したのである。
ビジネスの欧米化と”東洋のマンチェスター”と称される工業化が進み、空気の悪くなった大阪から店主は家族を芦屋などに邸宅を構えて移したことで、現在のブルジョアな芦屋界隈が出来上がる。
大阪人が妙にあの地域を憧れの目で見てしまう理由がそこにある。
汚い空の大阪に会社や工場勤めで通う河内や和泉住まいの労働者たちの職場や出先での会話が、秀吉の時代から伏見から移り住んだ商人たちの京ことばに由来する船場言葉を上書きしていく。
戦後はさらに西日本や遠い地方から働き口を求めて大阪に人が集まり、庶民文化が混ざっていく。
富裕層が大阪の中心からいなくなることで歌舞伎や文楽のようないわゆる芸能はお笑いなどの大衆芸能に追いやられ、南地や北新地といった芸妓がいた花街がキャバレーやバーといった大衆向けな店に凌駕されていく。
労働者は決して裕福ではなかったから、みんな「安くて、良いモノ」を買い求めて自慢するようになり、手取り早くおなかが膨れる粉もんが人気するようになる。
コテコテの大阪人は意外と新しい、大阪の”島之内”に祖先をもたない外来の人たちが作り上げたイメージで、おそらくは吉本の芸人さんたちらがTVやメディアで広げて定着させてしまったのである。