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えべっさんの正体

京都・建仁寺と、縄手通(大和大路)を挟んで向かいの京都えびす神社との関係は、聖徳太子の時代もそうであったように大寺の建立の安全を祈願してすぐそばに神社が先に建立される例もしかり、その後も長く明治まで神仏習合時代であったため、特段珍しいことではないが、その由来となる伝説では栄西禅師が中国に渡航するときに嵐に見舞われ、エビス神の導きにより、無事目的地に到着したということで、建仁寺の建立に合わせてえびす神社がこの地に造営されたのだそうである。
この神社の事代主神は御分霊で、もとは栄西禅師の出身地の岡山からもってこられたもので、ゆえに他のえびす神社に見られるように、現在や昔の漁村であったり、かつて市が立つようなところといったロケーションとは無関係に存在している。

そもそもエビス神とは何者でいらっしゃるのか。
えびす神社各社により、御祭神が蛭子神であったり、事代主神であったりということは先にも述べたとおりであり、神社によっては時代が下がって相互に置き換えられてしまったところもある。
七福神では唯一日本の神といわれるのに、エビスという名称自体は外国人をさしていたり、まったく意味不明だ。

ただ、栄西禅師がエビス神の導きで無事に渡航できたこと、全国の漁村近くに祀られることから、海の幸、海の恵みをもたらす何かであったことは想像できる。

ある書によると、
それはイザナギ・イザナミの最初の子にして未熟児がゆえに海に流されたヒルコの伝説を手がかりになるが、おそらくはイルカのような大きなサイズの海洋生物か、人の水死体で、魚たちがこれを餌にして大量に群がっていたところに、漁師たちの船が出くわして、結果豊漁となったので、この何かの水死体を漁村に持ち帰って、埋葬して神様として讃えたのではないだろうかということだそうだ。
だからそもそも蛭子神か事代主命かはあと付けのプロフィールでしかないので、途中で置き換えることも躊躇がなかったのではないかと思われる。

推測であるが、栄西禅師はそのまさに魚が群がっているところに遭難した船が差し掛かり、漁師の船が来て救助なり沖まで誘導したのではないだろうか。
あるいは捜索中の人の水死体に遭遇して、捜索の船にともに救助されたのかもしれない。

関西と近畿

最近は当地にいて「近畿」という言葉をとんと聞かなくなった。

おそらくは関西国際空港が開港したあたりから始まって「近畿」は関西に上書きされた感じだ。

かくいう僕もその関空が開港の時から数年職場だったのだが。

もともと「畿(=帝の住まいするところ、皇居、みやこの意味)」のほうから見て、『不破の関(岐阜県)』『鈴鹿の関所(三重県)』『愛発の関(福井県)』の関所より東を「関東」とよんでいたのであって「関西」という呼び名はなかった。

「関西」という呼称は鎌倉時代からあったらしいが今のような2府4県よりは西日本まで広いイメージだったり、そもそも現在の“関西”あたりの人たちにとって自分が住まいするところは中央であり、”上方”だと思っていたので、西に居るという感覚は全然なかった。

「近畿」という言葉が無くなるみたいなことを危惧したり残念に思うのは僕の個人的な性格によるものもありそうだが、じつは積極的に「関西」に置き換える理由が、まさに関西国際空港あたりに端を発している。

というのは英語でKinkiは「異常性欲(kinky)」を連想しやすいのだそうだ。

これに配慮して、近鉄はこのタイミングであったかは調べていないので定かでないが、Kinki Nippon Railway を Kintetsu Railway に、近畿大学は近年Kinki University をKindai University にあらためている。

この先はインバウンド経済を推し進め、雇用も外国人頼みで、オリンピックや万博など国際行事も続く日本ゆえにここは致し方ないだろう。

南海電鉄が戦時に近鉄と合併していた経緯で戦後に球団名に車両の”車輪”にちなんで「近畿グレートリング」としていたのを進駐軍らの欧米人からGreat ringが”偉大なる女性陰部”に聞こえて嘲笑されていた話は野球ファンには有名な歴史物語であるが、近畿もKinkyならさらに救いようがない名前だったということだ。

“わが藩は”などと誰も言ってなかった

先頃、といっても昨年だが、”西郷どん”の放送も終わったところであるが、

ちょっと調べたところ、じつはなんと江戸時代に”藩”という名称はなかったのだそうだ。

明治新政府が版籍奉還で各地の大名の所領に新たにこれを治める”知藩事”を立てたのが、行政の歴史上はじめて使われたということで2年後の廃藩置県で短い役目を終える。

では、何て言ってたかというと、長州藩は”長州”とか”長門国”とか”毛利家”または”毛利”、薩摩藩も同様に、薩摩国やら、島津やらと呼ばれていたらしい。

それぞれを国にしてしまうと日本国の立ち位置がややこしいので、中国で王の所領、つまり天皇の所領を表す”藩”という単位を使うことにしたそうだ。

じつは”幕府”という名称も江戸時代にはなく、つまり室町時代にも鎌倉時代にも使われていなくて、これも明治になって、征夷大将軍による政権を”幕府”としたのだそうだ。

幕府や幕政は”ご公儀”と言っていたようで、藩や藩政も”ご公儀”と言ってたりして、その場合、江戸のほうは”大(おお)公儀”みたいに区別して言ってたみたい。

だから、倒幕も佐幕も、藩政改革も、脱藩も幕末の偉人たちは言ってないし、幕末という言葉すら無いのであって、

“土佐脱藩、坂本龍馬じゃき”

も、そうは言ってなくて、

”土佐の国抜け 坂本龍馬じゃき”

みたいな、なんかだいぶフヌケな感じで言ってたみたい。

戦国時代と双璧で幕末の物語が男性ウケするのは、バクマツ、とか、ダッパン、とか、やたら濁音破裂音の用語が飛び交うさまが、ゴジラとかキングギドラの語感とおんなじで、何せ男子は濁音破裂音大好きなのもひとつの理由ではないかと思うので、それが史実どおりの表現だったらこれほど人気していただろうか。

奈良”県”コミュニティ自論

WordBench奈良のクローズに併せて、運営の任を退かせていただいた。

奈良で勉強会を催してきて、ずっともやもやしたものを抱えたままひと区切りしてしまった。

それは「奈良県」のコミュニティを標榜しながら、結局「奈良」のコミュニティで終始したということだ。

大阪の人にとって梅田界隈をJRの駅名で「大阪」と称するように、奈良県民の「奈良」は「奈良市」ではなく、県外にも世界にも知られる、鹿がいて、大仏さんがおわすそのイメージそのものズバリのあの界隈のことである。
歴史的にも、その場所はずっと「奈良」で、奈良県は「大和の国」であった。

でも、大阪や京都や都道府県を同じ名を冠する街が、奈良の場合、東西南北から県の人たちが仕事や買い物や娯楽を求めて必然集まってくるような、いわゆる「県の中心」ではないということ。
(かつてはそうであったが…)
頭でわかっていたつもりのことにあらためて気づくのが遅くて、気づいても結局、何か具体的なアクションをする以前に運営自体にモチベーションを維持できなくなって、コミュニティ運営から身を引くことにした。

僕の家の家系は、祖父以前は奈良県民で、現在も親族が奈良県の北にも南にもいる。
現在所属する会社は奈良市にあって、近年首脳陣の地元である天理市に移転して、平日は毎日通っているし、十数年前には奈良県の真ん中のほうの広陵町の職場で働いていた。
アクションはしなかったが、「奈良県」のコミュニティはどうあるべきか、大阪人ではあるが、この県との関わりの多い僕なりに思っていることを記しておく。

奈良県は縦に長い。これを南北方向に3つに地域を区切って、北和、中和、南和と称する。

奈良県内はどこの街も村も未だにムラ意識がとても強い。
新しい取り組みを次々と熱心に行なって話題の生駒市でさえ、市民の方には怒られるかもしれないが、新しいなりにムラ意識でまとまっている感じがしている。
そういうところであるうえに、北和、中和、南和にはそれぞれ東西に近鉄奈良線、近鉄大阪線、近鉄南大阪線が走っていて、それぞれがそれらを生活導線にしていて、
隣り合う市や町の人たちは交流があっても、近鉄橿原線を軸とした縦方向の交流は通学の高校生くらいでほとんど繋がっていない。言うなれば近鉄橿原線は京都に通うための脚のようなものだ。

県の外では、お互いに奈良出身か、そうか同士だと語り合い、奈良には鹿がいて大仏さんがいて、みたいな同じ調子で他人に話していても、地元に帰れば中和南和の人は鹿も大仏も縁のない他所の話になる。

あえて奈良県の中心はどこかといえば、大阪になる。
近鉄奈良線、近鉄大阪線、近鉄南大阪線に乗って、奈良県の北のほうの人も南のほうの人もみんな一番集まりやすい場所は大阪なのだ。
県下最大のターミナル駅である大和西大寺がその役を担うべきだけれど、家ひとつ建てるだけでも、掘ったら100%平城京の遺跡が出てくるから奈良文化財研究所がお出ましするような場所で、永遠に下町のまんまだし。

だから奈良県のコミュニティは県全体を包括するようなものをいきなり目指すのではなく、その3地域ごとに、あるいは市町村レベルで小さくまとまることから始めればいい。
ムラの中ではムラの人の交流は都会住まいの僕には羨ましいくらい仲睦まじさがあるので、ムラのこととして受け入れられればそれなりに盛り上がるだろう。
そうしてそれぞれが活動して、そののちお互いに関心があれば交流すればいいし、べつに交流しなくてもいい。

大きな県レベルのコミュニティができなくても、お互いが求めていなければ仕方ないのだ。

だから、奈良県で奈良県民によるWordCampなんかはまだまだかなりハードルが高いかもしれない。
さらにメンドくさいことに、奈良県の人たちは県外の人を寛大に受け入れ、大きな祭りやイベントも自由にさせてくれるが、当の自分たちは場所だけ気前よく貸してるだけで足を運ばないというような態度をとる人が多い。
シルクロード博も、平城遷都千三百年祭もまさにそんな感じで、県民で行った人のほうが珍しいくらいだ。
だから、奈良県民じゃない人が旗を振ってくれても、その開催後の将来、コミュニティが育つとか奈良県民のためになるWordCampになるかはちょっと怪しいんじゃないかと、個人的には思っている。

【祇園祭】”蘇民将来子孫也” – ちまきや茅の輪くぐりが意味するもの

祇園祭のちまきや茅の輪くぐりの由来については

スサノオノミコトが一宿一飯の恩義で蘇民将来に子孫をまもってやるから目印にチマキ(茅の輪)を飾るようにと約束された

という話が備後国風土記にあり、

これが祇園祭のちまきや夏越の祓の茅の輪くぐりのいわれになっているが、

じつは風土記の話をちゃんと文を追って読めば、

スサノオノミコトが蘇民の家で一宿一飯の恩を得て、その帰路に宿泊の願いを無碍に断った蘇民の弟、巨旦への苛立ちで、彼の一族を八つ裂きにして攻め滅ぼすことを思い立ち、巨旦の嫁が蘇民の娘であったことから事前に娘には茅で作ったベルトを腰にまかせておくように伝え、スサノオ軍が攻めこんだときに娘はその目印で一人無傷で保護されたという話なのだそうである。

“蘇民将来子孫也”のちまきを玄関先につけている家庭に加護があるのでなくて、つけているところ以外は善も悪も見境なく皆殺しにするから、結果その家は守られるという解釈が正しい。

しかも気をつけておかねばならないのは、私たちは別に蘇民将来の子孫でもなんでもない。つまりスサノオノミコトをだまして身を守ろうというのだ。バレたらどうなるのだろう…

なにはともあれ祭りに浮かれてないで、ちゃんとちまきを飾って毎年バレませんように、バレませんようにと願うしかないのです。

あーこわ~

(2023/7/6 改訂)

(参考)「蘇民将来と素戔鳴神

“WordBench終了”によせて

いま自分が毎日どうにかこうにかWordPressを操って仕事をし、生活ができているのは間違いなく、WordCampよりむしろWordBenchで出会った、デザイナーとプログラマの垣根のない、たくさんの人たちとの縁のおかげだと思っている。

はじめて大阪に参加して、神戸、京都にも足を伸ばして、自らが奈良を立ち上げるに至るときの僕の”WordBench”についての認識は、”地域のWordPress好きの関心を外さなければ基本何をしてもよい”というものだった。

事実、最初の頃の奈良は、いっしょに立ち上げをしたみんなとは飲み食いだけの忘年会にしてしまった回も、途中で誕生日サプライズをした回もあったし、実現はしなかったが、その先に夏休みの合宿の計画もしていた。

京都のWordBenchのオンラインでは京都のわぷーをつくる企画は途中で頓挫して、僕が描いた”舞妓ちゃん&わぷー”はたくさん”いいね”をいただいて独り勝ちの状態だったのに京都代表になれなくて残念だったけれど、著作権関係を調べる末にGPLの話で登壇させていただくまでに至り、楽しい時間を過ごせた。

WordCamp Kansai 2014は関西のWordBenchのユナイテッド的に召喚されて始まったのも懐かしい思い出だ。

その直後、WordBenchに”運営ポリシー”なるものの”遵守”が降ってきてからは、これに向き合って運営することに協力してくれるモデレーター仲間を新たに得て、奈良は体制が一新されたけれど、以来、近隣のWordBenchも飲食や遊興で親睦そのものを目的としたり、WordPressとは直接無関係で勉強会の体をなさないものは、べつにかまわなかったのだろうが、どこも催さない風潮になった。
奈良も参加する人が増えて聴講型の勉強会でなくては御せないくらいにはなっていたのも確かだが、なんとなくこれまでのようなわくわくもない、自由のない、ちょっと気が重い運営になった。

それぞれ異動は偶然だったかもしれないが、この時期にこれまで手本にさせていただいていた近隣各地のモデレーターの方々がたくさんリタイアされるきっかけにはなっていただろうと、同じ立場としてそう感じている。

運営ポリシーも、行動規範も、ルールは集団活動の自由と権利を守るものではあることは理解するが、本当に必要だったのだろうか。
果たして僕らはこのときも、今現在も、私利私欲や非常識を自浄できないくらいのレベルだったのだろうか。

ああ、そういえばあらぬ疑いもかけられて嫌な思いもした。
それから個人的にあまり運営は楽しめなくて積極的にもなれていないかもしれない。

WordBench の10年

そういうどこか気が重かったり、嫌な思いもするようになってしまったWordBenchをどうにか立て直したくて、結果無くしたほうがよいという話もわからなくもない。

でも迷いながら、拙いながら、やりくりしてやってきたこと、愚作のわぷーたちもちゃんと見てくださっている人もいることは涙がこぼれるし、僕よりももっと長く、もっと一生懸命に各地で頑張ってこられた人たちの足跡でもWordBenchはあると思う。

https://nskw-style.com/2018/wordpress/who-owns-wordbench.html

願わくばWordCampだけでなく、日本独自であってもよいから、全てのWordBenchの全ての登壇経験者、モデレーター、可能なら立ち上げや運営に寄与や協力してくれた人たちも貢献者として評価する仕組みを作ってあげてほしいものだ。
名前は残せなくても、その名のもとで大きくても小さくても関わった人の頑張りを讃えて残してあげたい。
奈良のWordBenchにとっても、個人的にもあらためて謝意を伝えたいひとはいっぱいいる。

 

さて、ところで、MeetUpに関して、奈良については単純に看板の掛け替えとは割り切れない思いがあり、それは今日の話題とは大きく逸れるので、また別の機会に記したい。

WordCamp OSAKA 2018に行ってきた。

WordCamp OSAKA 2018に行ってきた。

実行委員の人たちを含めて世代交代感はあるかな。

いつもみる顔や懐かしい顔がある。

6年前、はじめてWordPressに向き合うことになったOSAKAで同じ状況でたまたま隣の席に居合わせたのが縁で仲良くなった人とまたここで会えて、うれしいやら、もうそんなに経ったのかと、そんな話をした。

でも懇親会になるとわかりやすいのだが、みんな垣根なくわいわいとやるのではなく、常連や古参のシマや他のコミュニティのつながりのシマになるし、時間の制約があるにせよ正直挨拶するか、挨拶すらしないままで終わるひとも少なくない。

初めて来られた新しい出会いもあるが、ほとんどその後につながらない。

なんか大きな”祭り”みたいになった気がする。岸和田のだんじり祭りみたいな、都会や地方に散り散りに生活していても祭りの日には地元に帰ってくるような。

でも人も多いし近しい者もあれば挨拶や、顔見知り程度もあれば。

まあ残念なのはここに”奈良”のシマすらもつくれなかったということだ。

WordPressそのものについては前日に別地で行われたいわゆるWordPressのコミュニティの縛りがない催しで「とってかわる対抗馬もない、従うしかない、まるでロシアのプーチン首相だ」というたとえがあったが、正直当を得てる感じで、バージョンアップでわくわくするべきが、最近はその度に何か運用しているサイトに問題が起こらないか、育ててきた子どもが大きくなって気難しい子に育ってしまって扱いにあぐねてるようなイメージはある。

すべての人がそうだとまでは言わないが、シェアが大きい、トレンドだから乗り遅れてはならんと関わるようになるが、この気難しいヤツに向き合い、その苦労を分かち合う、そういう”祭り”になってるようにも見えて、新しい人は祭りはたかり、露店で”難儀回避”の情報を得るが、神輿を担いだりやだんじりを引く面倒にはかかわる気はない、という感じがする。

事実Gutenbergが開発者の思考によくある合理性を優先して強行導入され、結果、自社の客に迷惑を及ぼすような自体にならないことを切に望む、それを監視や確認をしにきたというような、リアルなそういう声も聞かされた。

昨年京都サイドから今年のWordCampを奈良でどうかと申し出があったが、二つ返事で無理と返してしまう。

逃げるつもりではないが僕は大阪の人であり、奈良でCampをするなら、ホストは奈良の人たちが自ら中心になって行えるものであるべきと思っているし、事実これまで公私大小さまざまイベントが行われてきたが、そのほとんどが他府県から持ち込まれたもので、
他府県の人たちが来て盛り上がるが、地元の奈良の人は足を運ばず、受容はしても関与しない態度を貫く、結果何も残っていない、そういう県民性のようなものがあり、だからCampをやった結果、奈良に何も残らないのでは何の意味もないからだ。

京都サイドには申し訳なかったがこれは奈良にいて関わっていないとなかなかわかっていただけないかもしれない。

ホストが奈良県人であろうが無かろうが、この祭りを催して、”貢献者”の人たちを一同に会する機会を用意しないといけない側面があるのもよくわかるのだが。

さて、奈良でWordBenchをしなくなって花街にうつつぬかしてると僕に落胆してSNSでブロックすらされてる人もいたりするが、僕が関わってきた奈良に関してはいつまでたっても神輿の担ぎ手が現れなかった。みんな祭りを観に来る人で神輿を担ぐほうもさすがに神輿を下ろしたくなったのだ。

私利私欲や所属会社の客に引っ張ろうとしてるんじゃないかと関わりの薄い人ほど適当な揶揄もうけたが、そもそも僕は奈良の同業や近い志をもつひとたちとつながる場所を、将来の奈良を思えばこそ、作りたかっただけだったし、いまもそう思っている。

次の奈良のWordBenchはいつですか?と
この日もひとづてに見ず知らずの方の声も聞こえてくるから、催さないといけない道義的責任は感じているが、できることなら神輿の担ぎ手にもなれる人を待望している。

(一部内容について修正、撤回をしました。2018.6.3 17時)

追記。
WordCampを奈良で開催することを僕個人の見解だけで阻んだことになっていなかったかは気になってはいる。そうならばお詫びしたい。
これについて誰か、個人的には願わくば奈良のひとが手を挙げてやりたいというのであれば、もちろんこれを応援するつもりでいる。

今宮のえべっさんは京都出身

大晦日、境内におけらの縄に火を灯しに集まる夜21-22時頃、八坂神社に鯛を抱えた神職と金の烏帽子の一行が参詣する。
大阪の今宮戎神社の福娘たち。
年が明けて正月の十日えびすで役目をつとめる子たちだ。

宵えびすを翌日に控える8日午前、今宮戎神社に、今度は京都・八坂神社から神職と巫女によって御神水が届けられ、そのお水で献茶祭が行われる。

八坂神社と今宮戎神社の相互交流は、今宮のえびすさまは、八坂神社の氏子が大阪の今宮の地に移り住むにあたり、八坂神社の北向蛭子社から勧請されたというという説によるものだそうだ。

その説の真偽は定かではないが、江戸中期に今宮の魚商人が蛤を京で売る利権の交換条件に三若の衆が代理で祇園祭の中御座の神輿を担がせていた時期があることと関係がありそうだ。彼らは”今宮神人”と称されていたそうだ。

演芸と商いの街ミナミの地という土地柄にあり、毎年選ばれた福娘たちが打ち揃い、華やかさと賑やかさで、数あるえべっさんの中でも一番大阪らしさのある今宮のえべっさんはじつは京都の出身なのかもしれないらしい。

11日ののこり福には舞妓ちゃんたちの笹授与の奉仕がある京都えびす神社であるが、花街・祇園町では十日えびすは八坂さんのえべっさんを支持する方も多い。
それは祇園さんの氏子であるがゆえでもあるが、縄手のえびす(京都えびす)について、”縁起が悪い”などという話を聞いたような気がする。

じつはそれは十日えびすの期間は客足を取られてヒマになる、お茶屋やお店の恨み節なのだろう。

多くの信仰を集めるがゆえの話なので縁起が悪いなどということはないから、安心して商売繁昌を祈念しに足を運んでいただきたいたい。

七福神のえべっさんだけが本当に唯一日本代表なのか

七福神の大黒天、毘沙門天、弁財天はインドの神様、福禄寿神、老寿神、布袋尊は中国の神様、唯一 恵比寿 えべっさんだけが日本の神様と言われているが、それにしても異国人を表すエビス(夷)と称される神が日本代表とは違和感ありありな話である。

大黒天が日本の大国主命(オオクニヌシノミコト)が”ダイコク”で結びつくという話はここでは置いといて。

ギリシャ神話に恵比寿神に関わるような部分が見受けられるのだそうだ。

酒神バツコスの別名が”エビオス・エビウス”と聞けば、えびす総本宮の西宮の酒造りを想起するし、彼にちなんでエルサレムはかつてEbusと称され、これが夷の語源である可能性が高いそうだ。

とくに気になるのはえびす神社の主祭神はヒルコと事代主命(コトシロヌシノミコト)の2系統に分かれていること、同一神とみなされていたりするという話を先の投稿に書いたが、そのエビオスは戦争神”カタシロ”としての一面をもつとのくだりがあるそうで、もう無関係な話とは思えない。

奇形に生まれたヘパイストスが海へ捨てられるくだりはヒルコの伝説ほとんどそのままかに読み取れる。

ギリシャ神話にはえびす様の件以外にも、先述のオオクニヌシも、イザナギイザナミに至るまで日本神話(古事記)がこれをなぞっているように思える物語があるようだ。

つまりはえべっさんも日本の神ではなくギリシャ神である可能性はある、と言いたいところだが、日本神話の神様まるごとギリシャ神の可能性も否定できず…回り回ってえべっさんは日本の神様ということになるのかな。

まあ日本代表といっても、ラモス瑠偉や呂比須ワグナーといった感じかな。

奈良時代、古事記の編纂に大陸からの渡来人が天皇が神に通ずる存在であるとする話をギリシャ神話を参考に創作されたかも…ということなのかもしれない。

(参考) ヨセフと大物主… – 新次元の叡智を生きるか
http://trakl.exblog.jp/17939427/

産土に詣る

初詣は産土(うぶすな=自分が生まれた土地)と氏神(現在の居住地)と崇敬(個人的に思い入れがある)の3つの神社に詣るべきなのだそうだ。

だから産土神社として親元(実家)の氏神でよいのだろう(自分の場合は現在地が実家と同じ町内なので産土も氏神も同じ)と思っていたが、それはお産婆さんが家に来て赤ちゃんをとりあげている時代はそれで正しかったが、戦後は産婦人科や病院での出産が当たり前なので、産土はなんと”病院の氏神”になるのだそうだ。

出生した産婦人科医院は現在も存在し、幸いそう遠くない、亡き母の実家があったあたりである。

ということで、平成30年の初詣先として、その産婦人科医院の所在地に基づく正式な産土に詣でることにした。

母の実家があった周辺を歩いたが、子どもの頃に憶えている光景とはすっかり様変わりしていた。

さて、産土にはすぐにたどり着けたわけではなく、隣になる氏子域の神社の社務所にうかがって解った。

そちらの神社は彌榮と書いて、”やえ”ではなく”いやさか”と読む。

祝詞にある”万歳”に近い意味の言葉だが、”いやさか”が転じて”やさか(八坂)”となるのは言うまでもない。

京都の祇園町周辺にも”弥栄”と書いてヤサカの名前の場所や企業がある。

つまりはかつては牛頭大王、のちにスサノオノミコトを祀り、社紋も祇園さんだった。

産土である神社は病院の所在地から少し距離があるような気がしたが、周辺の村の神社をたくさん合祀していて、それなりに大きな神社だった。

かくして生まれてこのかたの不敬を本殿に詫び、村の鎮守を祀った小祠にも手を合わせることができた。

現在の職場のある天理の石上神宮の小祠もあったり、家族と長く崇敬してきた神社の分霊もあり、何やら縁を感じる。

氏神と産土のお守り。

来年で12年、干支に因んだ社寺の初詣も一段落するので、歳も歳なので”崇敬”も一つ決めたいところである。