WordCamp OSAKA 2018に行ってきた。
実行委員の人たちを含めて世代交代感はあるかな。
いつもみる顔や懐かしい顔がある。
6年前、はじめてWordPressに向き合うことになったOSAKAで同じ状況でたまたま隣の席に居合わせたのが縁で仲良くなった人とまたここで会えて、うれしいやら、もうそんなに経ったのかと、そんな話をした。
でも懇親会になるとわかりやすいのだが、みんな垣根なくわいわいとやるのではなく、常連や古参のシマや他のコミュニティのつながりのシマになるし、時間の制約があるにせよ正直挨拶するか、挨拶すらしないままで終わるひとも少なくない。
初めて来られた新しい出会いもあるが、ほとんどその後につながらない。
なんか大きな”祭り”みたいになった気がする。岸和田のだんじり祭りみたいな、都会や地方に散り散りに生活していても祭りの日には地元に帰ってくるような。
でも人も多いし近しい者もあれば挨拶や、顔見知り程度もあれば。
まあ残念なのはここに”奈良”のシマすらもつくれなかったということだ。
WordPressそのものについては前日に別地で行われたいわゆるWordPressのコミュニティの縛りがない催しで「とってかわる対抗馬もない、従うしかない、まるでロシアのプーチン首相だ」というたとえがあったが、正直当を得てる感じで、バージョンアップでわくわくするべきが、最近はその度に何か運用しているサイトに問題が起こらないか、育ててきた子どもが大きくなって気難しい子に育ってしまって扱いにあぐねてるようなイメージはある。
すべての人がそうだとまでは言わないが、シェアが大きい、トレンドだから乗り遅れてはならんと関わるようになるが、この気難しいヤツに向き合い、その苦労を分かち合う、そういう”祭り”になってるようにも見えて、新しい人は祭りはたかり、露店で”難儀回避”の情報を得るが、神輿を担いだりやだんじりを引く面倒にはかかわる気はない、という感じがする。
事実Gutenbergが開発者の思考によくある合理性を優先して強行導入され、結果、自社の客に迷惑を及ぼすような自体にならないことを切に望む、それを監視や確認をしにきたというような、リアルなそういう声も聞かされた。
昨年京都サイドから今年のWordCampを奈良でどうかと申し出があったが、二つ返事で無理と返してしまう。
逃げるつもりではないが僕は大阪の人であり、奈良でCampをするなら、ホストは奈良の人たちが自ら中心になって行えるものであるべきと思っているし、事実これまで公私大小さまざまイベントが行われてきたが、そのほとんどが他府県から持ち込まれたもので、
他府県の人たちが来て盛り上がるが、地元の奈良の人は足を運ばず、受容はしても関与しない態度を貫く、結果何も残っていない、そういう県民性のようなものがあり、だからCampをやった結果、奈良に何も残らないのでは何の意味もないからだ。
京都サイドには申し訳なかったがこれは奈良にいて関わっていないとなかなかわかっていただけないかもしれない。
ホストが奈良県人であろうが無かろうが、この祭りを催して、”貢献者”の人たちを一同に会する機会を用意しないといけない側面があるのもよくわかるのだが。
さて、奈良でWordBenchをしなくなって花街にうつつぬかしてると僕に落胆してSNSでブロックすらされてる人もいたりするが、僕が関わってきた奈良に関してはいつまでたっても神輿の担ぎ手が現れなかった。みんな祭りを観に来る人で神輿を担ぐほうもさすがに神輿を下ろしたくなったのだ。
私利私欲や所属会社の客に引っ張ろうとしてるんじゃないかと関わりの薄い人ほど適当な揶揄もうけたが、そもそも僕は奈良の同業や近い志をもつひとたちとつながる場所を、将来の奈良を思えばこそ、作りたかっただけだったし、いまもそう思っている。
次の奈良のWordBenchはいつですか?と
この日もひとづてに見ず知らずの方の声も聞こえてくるから、催さないといけない道義的責任は感じているが、できることなら神輿の担ぎ手にもなれる人を待望している。
(一部内容について修正、撤回をしました。2018.6.3 17時)
追記。
WordCampを奈良で開催することを僕個人の見解だけで阻んだことになっていなかったかは気になってはいる。そうならばお詫びしたい。
これについて誰か、個人的には願わくば奈良のひとが手を挙げてやりたいというのであれば、もちろんこれを応援するつもりでいる。