京都の八坂神社は播磨・姫路にある廣峯神社の分祀だという説がある。
真偽は定かではない。
というのもこの説は鎌倉時代に現れた吉田神道が流布する以前には見られないからだそうだ。
この説に呼応するように、神戸、大阪、京都には貞観11年(869年)、御分霊の神輿が京都に送られる道程の停泊を創祀とする祇園神社、八坂神社が点在している。
貞観11年というと勘のよい方は祇園祭の始まりとされる「御霊会」が行われた年であることに気づく方もおられるだろう。
説を肯定するならば、おそらく廣峯からの京都に神様が迎えられたことと一連の出来事であったと考えるのが妥当に思える。
文献やネットには学者や一般人の歴史家による考察がいくつかあるが
実際に写真などを伴って現地を紹介しているものが皆目無いので、これに関心をもってしまった私が、現地におもむいて、令和5年(2023年)の現在を確かめることにした。
起点の廣峯神社から記述するが、訪問の順番は道程の順ではないので断っておく。
廣峯神社
(2023/5/2 訪問)
JR播但線 野里からタクシーで15分ほど。
徒歩で登れば1時間はかかる、なかなか険しい山の上にある。
この山は白幣(はくへい)山と呼ばれ、いまから2,000年以上前から山上に「スサノオ」と「イソタケル」が祀られ、古代、神功皇后が朝鮮半島に「三韓征伐」に出兵する際に戦勝祈願を行い、勝利して凱旋するときも戦勝報告と感謝の大祭をされたという。
この話はまさに祇園祭の前祭の「船鉾」、後祭の「大船鉾」、(他にも占出山があるが)を想起させ、縁を感ぜざるを得ない。
廣峯におけるスサノオと神功皇后の関係を知っているからこそ祇園祭に反映させたのではないかと思わせる。
現在の鎮座地については、奈良時代に遣唐使の吉備真備が日本に戻る途で淡路島近辺で神託(おつげ)をうけて、その報告をうけた聖武天皇の勅命で、社殿が設けられたということだそうである。
現在の社殿は室町から江戸につくられらもので、武家の時代のものによくみられる、木肌がそのままの荒い雰囲気がある。
黒田氏が神社に奉仕する「社家」のひとつであったことで、近年、NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」の頃に当地に関心が集まった縁で、令和になって「官兵衛神社」のような真新しい社殿も建立されている。
社殿の裏奥、「白弊山」の奥宮には本来の御神体である磐座(いわくら)がある。
神功皇后が祈願なさったのならこの場所であろう。
ここまで詳しくは書いてこなかったが、ここから京都に御分霊がはこばれた神は「牛頭天王(ごずてんおう)」で「スサノオ」と同一とみなされている。牛頭天王自体はよくわからない神様で、「祇園」の由来になっている祇樹給孤独園、日本では通称「祇園精舎」という古代仏教の布教施設に祀られていた守護神と言われているが、インドにも中国にも牛頭天王にまつわる話自体無いそうで、むしろ韓国にいくつか牛頭山と称される山や島があり、それぞれ地のその山や島自体への信仰と何か関係があるようだ。
「スサノオ」は日本書紀に「新羅(古代朝鮮半島にあった地域、国)の”ソシモリ”」に降臨したとあり、ソシモリはハングルで漢字をあてると「牛頭」または「牛首」となるらしい。
古事記や日本書紀という”大王家(皇室)肯定”の国史編纂にあたって、渡来人の知恵を借り、近隣諸国の歴史や伝説を参考にしたことやその後の神仏習合でごちゃごちゃにこの国の信仰対象として正当化されたものだろう。廣峯神社が山の上にあるのも朝鮮半島伝来で、牛頭天王は山の神で、山の上に祀られる必要があるからだろう。
貞観11年(旧暦)3月朔日(1日)、清和天皇により播磨国廣峯より牛頭天王を勧請する勅命が発せられる。
神戸平野 祇園神社
(2023/2/4 訪問)
JR神戸駅、神戸市営地下鉄大倉山駅近くから、有馬街道の山坂を北上すること2km。
境内からは神戸の港や市街を一望できるような山の中腹にある。鳥居をくぐって境内までの石段は結構長くて険しく、下りも手すりをもったほうがいいかもしれない。
姫路廣峯を出発した神輿の一行が廣峯神社と縁者であった徳城というお坊さんの導きで一泊した場所が地元の民の信仰を集め、当地が神社になったという。
神社の麓には「祇園町」という地名がいまも住所として残っているし、六差路の「六道の辻(りくどうのつじ)」があるのも京都の八坂神社、東山周辺を思わせるようだ。
平野は平清盛「福原京」をおいた地で、京都の平野神社の「平野」にあやかっているのだろうか?(不明)
姫路から神戸への道程、神輿は浜の方へは下りず、山伝いの道を有馬経由で来たのだろうか。
浜のほうへ出で東進してきたとしても、山の神なので山の方へ導く必要はあったのだろう。
あるいはこの地に疫病が蔓延していたなどの事情があり、神威をもってこれを払わんと立ち寄ったか。
難波八阪神社
(2023/2/12 訪問)
ネットなどで見受けられる文献や記事では、難波八阪神社も神輿の道程にあると書かれているが、神社界隈の人が語っているとだけあり、由緒書に記載もなく、”公式”といえるものが見当たらない。
調べたところ神戸平野から、大阪に至るまで、スサノオ神社はあるものの貞観11年の創祀をうたっている廣峯、祇園、八坂、スサノオ神社は見つけられなかった。
仮に難波八阪神社が神輿の道程にあったとすれば、陸路で神戸方面から来たとすれば京都へ向かうのにここに立ち寄ることはかなりの寄り道になる。
可能性としては、神戸阪神間で海路を使ったか、この界隈に疫病が蔓延していて神威をもってこれを払わんと立ち寄ったか。
廣峯から京都へ神輿が運ばれる以前から、廣峯神社、牛頭天王は疫病退散を願うひとの信仰を集めていたようで、神輿の行幸の前の時代にも各所に廣峯神社の分祀が存在しているし、以後の時代も八坂や祇園、スサノオなどの名前で神社が建立されている。
寝屋川の八坂神社は、神輿の行幸以前、飛鳥時代、大化の改新直前の643年に地元の水源で田畑も潤していた池が汚染し、それが原因の不衛生から病気が蔓延したが、地元の民が播磨・姫路の廣峯神社に足を運んで祈願したのち、状況が好転回復し、
その神徳への感謝を忘れないために池のほとりに御分霊を祀ったその場所が当地ということだそうである。
(2023/5/4 訪問)
高槻 原 八坂神社
(2023/4/2 訪問)
JR高槻駅北口から市営バスで15分、山の方へ北上して「神峰山口」で下車、10分。
「神峯山」というのは奈良から長岡京、平安京への遷都を行った桓武天皇の実父、光仁天皇の勅願で建立された神峯山寺があるからだということだろうが、神峯山寺のほうが神輿の行幸より70年以上前とはいえ、廣峯と神峯の語呂に近いのが個人的に気になる。
ここ3年コロナ禍で中止になっているが、毎年4月最初の日曜日に「春祭歩射神事」通称「大蛇祭」というものが行われる。
村の人たちがワラで作った大きな綱を大蛇に見立てて、それをかついで村内を練り歩き、最後は境内の的場に運び入れ、矢で射掛けるというもので、明治以前は境内を横切る川を挟んで引きちぎれるまで綱引きをしたとのこと。
神社の言い伝えでは地元に大蛇が現れ襲ったのを神社に祈願して退治できたという話であるが、スサノオのヤマタノオロチ退治に似ているし、村に疫病が蔓延したことを意味するのかもしれない。
いずれにしても高槻の市街地よりは山の手で、神戸平野と同様に山に祀る必要で当地になったのかもしれない。
大阪難波方面に向かわず六甲から北摂の山伝いに京都に向かっていた可能性は全くないとは思えないが、常識的に考え難い気がする。
元祇園梛神社
(2023/1/22 訪問)
神輿の行幸は平安京に到着し、四条大路をすすんで現在の坊城通と交わる「四条坊城」付近にあった梛(なぎ)の大きな林に住む源氏の一族の誰かがをお迎えする。
源氏とは皇族から姓を与えられ臣下に下った(臣籍降下)家柄に与えられた、皇室と親戚の姓のひとつであって、直接的に源頼朝に繋がっていく家の祖先であったかはこれだけではわからない。要するに元皇族が神輿を出迎えたということだ。
その梛(なぎ)の森で朱雀大路に一番近い林に祠を建て神輿から御霊をお祀りしたそうで、その場所が現在の境内地にあたる。
その後八坂の郷に向かって神輿が向かうとき、住民が花で飾った風流傘(ふりゅうがさ)を立てて、棒を振って見送ったのがいまの祇園祭の始まりだと由緒書にはある。
風流傘や棒振りは現在の祇園祭の綾傘鉾や四条傘鉾とその町衆の舞踊のイメージが近いのではないかと思われる。
ここまで書いてこなかったが、清和天皇の勅命によって京に行幸してきた神輿は八坂の地を目指していたわけではない。
牛頭天王は平安京ができたときから東の方角を護る東天王として東光寺というお寺に祀られていたのが焼失していて、清和天皇は牛頭天王が居られないから、この国に災いが多いのだと考えられて、新たに廣峯からお迎えすることを決められたのではないかと思う。
貞観11年、旧暦6月7日、清和天皇の勅命で御池通りの由来になっている通称「御池」の神泉苑で、当時の日本に在る”クニ”の数の66の鉾刀を立てて、”祇園神”の神輿を迎えて、「御霊会」を行われる。これが現在の「祇園祭」の発祥と語り継がれていることであるが、
この”祇園神”の神輿が八坂から来たという証拠があるわけでもなく、ここまでの行幸を見てくると、梛神社を出発した神輿の行幸がまっすぐ東に四条大路を突き進んで八坂の郷に向かったのではなく、坊城通りを北に向かって神泉苑に向かったと考えるのが妥当のように思われる。
神輿は八坂の郷に向かう目的ではなかったわけだし、平安京は(新)京極通までであって、その先は京とは違う場所であって当時が今のように四条大路が八坂神社に向かう参道でもなければメインストリートだったわけでもない。鴨川に四条大橋も架かってはいなかった。
京都に少し詳しいひとなら「東天王」と言われると気づかれるのではないかと思うが、今年うさぎ年で、正月が過ぎても今なお参拝客が絶えない、岡崎神社の別称だ。
東天王 岡崎神社
(2022/12/31 訪問)
岡崎神社は「北白川」の「瓜生山」にあった東光寺の境内にあった神社(境内社、鎮守社)であった。
神泉苑での御霊会のあと、この地に牛頭天王を京の東の守護として祀った。
瓜生山といえば、京都芸術大学(旧 京都造形芸術大学)のある場所だ。
祇園祭の頃、京都の人は、祇園の神紋がきゅうりの断面に似ているのできゅうりを食べないというが、牛頭天王自身はきゅうりを好んだとも言われ、瓜生山は胡瓜(きゅうり)好きの牛頭天王のおられる山という意味なのだそうだ。
東光寺自体は岡崎神社の向かい側の御旅所のところにあったようであるが今は失われて無い。
京都芸術大学のある瓜生山にも廣峯から行幸した牛頭天王が一時まつられ、八坂に遷されたという説があるのだが、この場所は岡崎からはかなり離れていて東光寺との関係がよくわからない。
ただ私たちは現在「北白川」と認識している場所が京都芸術大学の場所あたりと思っているが、歴史的にかつては岡崎付近も「北白川」であり、現在のような開けた場所のイメージではなく東山に連なる丘になった森のような場所であり、そもそも瓜生山自体、現在の場所を指していたかどうかも定かではなく、現在地を含めて南側の丘陵地の可能性があるようで、瓜生山すなわち岡崎であったということは否定できないように思う。
後年、東光寺は火災に遭うなどがあり、元慶年間(877-885)に八坂の郷に「祇園感神院」としてあらたに祀られ、現在の八坂神社に至る。
私は京都の芸舞妓に関心があるのだが、近年、歌舞練場が工事していた期間、瓜生山の京都芸術大学にある春秋座で八坂の祇園さんの氏子になる祇園甲部や宮川町の芸舞妓らがそれぞれ「都をどり」「京おどり」の公演をおこなっているが、この話となにか縁があるようでひとり悦に入っている。
今年はみんなとくに岡崎神社のうさぎの像に夢中になっているが、岡崎神社の御祭神をちゃんとご存知だろうか。
それで結構至近距離にある八坂神社と同じ祭神であることになにか疑問を感じた方はおられるだろうか。
ただ、現在の岡崎神社の由緒書には廣峯神社とも八坂神社とも双方の関係には一切触れていない。
西天王 須賀神社
(2023/5/4 訪問)
境内にある由緒の高札には記載がないのだが、社務所でいただいた由緒書には、貞観11年に廣峯神社からの分祀を創祀とする内容がある。
須賀神社の「西天王」は岡崎神社が岡崎の地に再建されて以来の位置関係で西側という意味のようだ。かつては平安神宮の位置にあったようで、京の西を守護する意味ではないようだ。
京に到着した御分霊を東天王として祀られるものとさらに分けられたかのように読み取れるが、何のために分けられたか、何のために平安神宮のあった場所に祀られたかはよくわからない。
あらためて、冒頭にも書いたが、京都の八坂神社は播磨・姫路にある廣峯神社の分祀だというのは定かではない。
八坂神社はその創祀は656年に朝鮮・高句麗から渡来した伊利之使主(いりしおみ)が新羅の牛頭山に祀られていたスサノオを当地に祀った説と、貞観18年に奈良にいた円如というお坊さんが当地に堂を建てた年に「天神(祇園神)」が降臨したという説のどちらかであるとしている。
ただ私が思うに、
伊利之が牛頭天王を祀っても、それはこの国のためではなく、あくまで八坂の郷に生きる秦氏の一族「八坂造(八坂氏)」のためだけの信仰対象であったに過ぎないという可能性はないだろうか。
神様が降臨する場所はひとには決められないが、平安京にとって八坂の地に祀られる、方位学的なものであったり道義的な理由がない。
あるいは貞観11年の時点で、八坂造が信仰していた牛頭天王もまた焼失などしていた可能性もあったのでは。
それならば、天皇は京やこの国のためには独自で牛頭天王を迎える必要があると考えるのももっともではないかと。
もっとも吉田神道が唱える説も創作、各神社の由緒も創作かも知れず、日本の神様自体ファンタジーだとそう言ってしまえばもう元も子もないけれど。
(2022/5/28 加筆訂正)