住吉大社「宝之市神事」

住吉大社では、御田の田植えの「御田植神事」に対して、秋の収穫に「宝之市神事」が行われる。
毎年10月17日、御田に実った稲穂に五穀を添えて神前に捧げる神事である。

五穀をそれぞれ枡(ます)に入れて献上するので、その枡にあやかって、枡を売る屋台や大道芸の披露のある「升の市」のほうが広く知られているようだ。

宝之市神事は神功皇后が三韓征伐より帰還された際、持ち帰った貢物や物品で市をたてたのが起源らしい。ようするに戦利品を売りさばいたということか。

御田植神事は、御田の買い戻しと寄贈の件で明治以来、新町廓とのゆかりが深いことは以前書いたとおりだが、宝之市神事は南地花街とのゆかりが深い。

南地と宝之市神事とのかかわりは新町と御田植神事とのかかわりと同じ頃、と「大和屋物語」には書かれているが、新町の御田の買い戻しほどの歴史的貢献に匹敵するような何か出来事が、住吉大社とのあいだにあったのか、知り得るものがない。単に新町への対抗心で南地から大きな寄進が大社にあったという推測するが、なにかご存知なかたがおられればおしえてほしい。

神事は御田に隣接する五月殿で、収穫の神事が行われ、そのあと第一本宮に移動し、稲穂と五穀が神様にお召し上がりいただくというテイで神殿の奥の扉が開けられ、神職らに運び込まれる。
神様の食事が下げられて、稲穂は神殿内の別の場所に置かれるが、五穀は奉仕した市女(いちめ)に返される。

五穀を神前に奉仕する役目の市女が、戦前は南地の芸妓らが上臈 (じょうろう、皇后や中宮に仕えた最高位の女官) の姿でつとめていた。

現在は30分ほどの短い神事で、市女役も着物の教室の生徒のかたなどが選ばれ、五穀も枡を積み上げて一人で一度に奉納されて簡素化されているが、戦前の宝之市神事は南地花街あげての一大行事であったことが残された写真から見てとれる。

五穀をそれぞれ入れた5つのマスを5人の市女が神前に捧げるが、八足台(机)には多くの畑作物も並んでいる。
場所も第一本宮ではなく、神様は神輿に載せて会場まで連れ出し、神殿がわりにしているように見える。
市女のマスには「住吉大社」の文字と南地桜紋のような焼印も見える。

建物の外から大勢の人がのぞきこんでいるのがわかる。
この建物は写真の奥に鳥居が見えているので境内から外に向かって右手の絵馬堂だろうか。
現在の絵馬堂と建物のようすが違うが、建て直しされている可能性はある。石灯籠などを手掛かりに探してみたが、確かなことはわからない。

1945年(明治45年)刊行、泉鏡花の小説「南地心中」に、宝之市神事の翌日翌々日に行われていた「市女(いちめ)行列」が描かれていて、作中では市女に選ばれる南地芸妓は12名が決まりとあるが、(物語は血を流す謎の13人目が現れるが)「大和屋物語」にある写真では10人のように見える。

「たから物抽籤(抽選)所」は何処だろう。
この建物も色は違うが十六菊紋がある社殿幕が軒にあるので住吉大社境内であると思われるが。
時間は夜のようであるし、2種類の衣装の芸妓がペアで10組いるようだ。そうなると市女とはべつに10人ほどの芸妓が準クラスで選抜されていたと推察される。

宝之市神事の翌日からミナミの花街では屋台や市女行列で賑わう、宝恵駕に並ぶかそれ以上の南地の一大行事だったようすが「南地心中」でも読みとれる。

それほどに市民の注目度が高く、南地の芸妓も、誰が一番だ二番だと、客の意見が大きく分かれるほどに大勢いたことがわかる。

太平洋戦争の空襲で南地は焼け野原になり、宝之市神事の衣装などもすべて焼失し、戦後はかかわりが失われてしまった。
御田植神事ほど、芸妓が神事に参加するべき理由が見当たらないので、復興の模索すら難しい、もう取り返せないミナミの文化である。