住吉さんの御田植神事と大阪花街の神話

毎年6月14日に大阪・住吉大社で行われる御田植(おたうえ)神事。
初夏の大阪の風物詩で、住吉大社ではそのあとに行われる夏祭より社の創祀の歴史にかかわる大切な神事である。親しみをこめて昔から”おんた(御田)”と呼ばれている。

住吉さんのおんたはじつは大阪の花街の歴史を語るうえでも重要な行事であることはあまり知られていない。

社伝によると、神功皇后が住吉大神 (底筒男命・中筒男命・表筒男命) の加護を得て三韓征伐に勝利し、帰還を果たされ、この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地にお祀りされたことに住吉大社ははじまる。
神功皇后は神々にお供えするお米を育てる御田(おんた)を設け、長門 (いまの山口県) から「田植女 (たうえめ)」たちを召され、田植えを任されたことが御田植神事の由来である。

長門から来た田植女たちはのちに「乳守 (ちもり)」とよばれるあたりに住わされ、御田の田植えをつとめ、五穀豊穣を祈ることを任務とされる。
その子孫が遊女になったとされ、その後、御田植神事において、重要な役どころである、田植女のすがたを写した「植女 (うえめ)」は堺の乳守遊廓の遊女がつとめることになる。

非科学的だと言うなかれ。神事は神話に基づくものなのだから。

そのような神話的経緯から、堺の乳守遊廓は長きに遊女の発祥、遊郭・花街の発祥地とも言われてきた。
それゆえに廓としても日本で一番格式が高い廓と言われ、江戸に吉原遊郭が開場するときも遊女の指導者として乳守から遊女が招かれ、彼女たちが住まいした妓楼のある区画は「堺町」とされた。

堺は南蛮との交易や鉄砲の生産で栄華を極め、乳守遊郭もことのほか繁栄した。
私の想像であるが、乳守遊郭の遊女が植女をつとめるようになったのは、乳守は紀州方面からの住吉大社への参道にあるし、おそらくは巨額の寄進を社に納めていたことも想像に難くなく、乳守の遊女が田植女の子孫というのも、WinWinな後づけな理由なのではないかと思う。

江戸時代になって、大和川の付け替えで堺の港が浅瀬になり海外からの大型船が寄港できなくなって、堺が勢いを無くして歴史の舞台から消えていったように、乳守遊郭も衰退の道をたどる。

明治になって、資金難の明治新政府は国内の大きな社寺の境内を強制的に召し上げ、民間に払い下げるという「上知令 (あげちれい)」のようなことを行う。

いまの京都・祇園町南側の花見小路界隈もそれ以前は通りの奥にある建仁寺の境内であったが、政府に召し上げられ、それをお茶屋「一力」は祇園の町が失われることを懸念し、結果的に政府から境内地を強制的に買わされたことがきっかけで現在の街がある。ゆえに「祇園町南側」はいまも街ごと私有地 (現在の所有は八坂女紅場学園) なのである。

住吉大社も例外ではなく、上知令で御田を召し上げられ、民間に売却されそうになったのを大阪の遊郭・新町のお茶屋や旦那衆がこれを買い戻し、それを社に寄進するかたちで御田が守られる。

そのときから御田植神事は、乳守が務められてきていたかは定かではないが、この出来事以降は乳守にかわって新町廓がつとめるようになり、その後、平成の頃までつづく。

江戸・吉原、京・嶋原、と並ぶ三大遊郭と称され、明治になっても大きな花街であった新町は、新町から住吉大社までゆうに1-2時間以上かけて、植女をつとめる遊女、のちに芸妓らが禿 (かむろ) とよばれる将来の遊女候補の女児をともない華やかな行列で、沿道の市民を楽しませながら歩いたようで、現在も境内のなかだけではあるが植女役の御田への入場にはその様子を今に残している。

新町廓では毎年、多くの遊女、のちに芸妓から誰が植女に選ばれるかは大きな話題となり、植女すがたには現地で神事を兼ねた化粧や衣装替えをして変わるので、行列では行列用の一張羅な衣装を旦那が誂えるということが恒例であった。
1979年に御田植神事が国の無形民俗文化財の認定をうけたのを記念して、以来神事に「御稔女 (みとしめ)」という、御前すがたで一人舞を奉納する役目が追加され、これを新町で一番人気の芸妓がつとめるようになる。

東海道新幹線の開通以降、ビジネスの東京一極集中が加速し、「旦那」がいなくなった大阪の花街は衰退の一途をたどり、新町も例外ではなく、平成の頃には新町だけでは植女も御稔女も十分な人数を送り出せず、「大阪花街連盟」という名のもとに、堀江、北新地、南地からも芸妓を応援で参加するかたちとなり、やがて、南地大和屋の芸妓だけのやりくりになる。
南地大和屋が閉店したあとは、「大阪花街連盟」の業務を継承した「大阪21世紀協会」の管理のもと、日本舞踊の社中や教室の生徒らが植女、御稔女役をつとめるようになり、今日に至っている。

誤解のないように書いておくが、現在も御田植神事では「新町廓」の提灯やのぼりがあがるように、神事を「南地」が継承して現在があるのではない。つまり最終的に南地の行事になったとするのは誤りで、南地大和屋の芸妓らも御田植神事には、あくまで「新町の芸妓」として、代理でのぞんでいたことを知っていてほしい。

現在は御田を取り囲む観覧席もチケット完売で多くの市民が見守る、時代絵巻を楽しめる、見ごたえのある行事となっている。御田に役どころの方々が入場されるまでの境内での神事、行事、各所への移動の様子も朝から見どころが多い。
大阪に住まいされるかたには機会をもってご覧になられることもおすすめする。

令和になって、南地では若い芸妓らが日々頑張って、花街文化の復興と新時代の開拓に努めている。
そして、新町花街の復興に動き出すひとも現れた。

衰退で役目を果たせなくなったのは大阪の花街の責任ではあるけれど、これからこの世界でがんばっていく、田植女とその子孫たる大阪の芸妓に、住吉大社の祭神となられている神功皇后からの託宣を果たさせてほしいと是非に願う。

芸妓らも歴史も伝統もある神事に関わり舞を奉納する経験や目標をもてば、誇りや社会貢献に意義を感じ、彼女たちの成長を促すだろう。
神事も史実に沿うことで歴史的な意義や価値が回復する。

伝統はそのものを単独で守るよりもいわれや関連のある伝統とともに守ってこそ、意義があり、ともに長らえるものである。

ただし、神事は絶対穴はあけられない。

当日人の都合がつかないからその役どころは無しにはできないし、一年こっきりで人を出せないようでは何の信用もない。
芸妓は覚悟をもって役どころの責任を全うする。それがすなわち誇りとなる。
神事を絶やさぬことは当然、花街は一層後進育成に邁進せねばならない。

そういうことを踏まえても是非現代の若い大阪の芸妓たちをして”おんた”の歴史的回帰を実現してほしい。