令和8年(2026年)1月10日の今宮えびすの「宝恵駕行列」の先頭、「本隊」の駕籠に現役の南地芸妓がおよそ20年ぶりに乗輿した。
今宮戎神社の十日えびすでは毎年コンテストでいやいまはオーディションというべきか、選ばれた福娘たちが注目の的で立場も巫女に近く、「宝恵駕行列」においてもスポンサーに福笹を届ける役目を担っていて、この行事の主役と言って過言ではない。
「宝恵駕行列」の「宝恵駕」とはなにか。
「宝恵駕籠」は神社の例祭に芸妓舞妓が贔屓の旦那の代理で遊女が駕籠に乗って代参するという、かつての関西の花街の慣わしのことで、いくつか各地の花街にその痕跡があるが、とりわけ大阪・今宮戎神社に程近い南地花街の「宝恵駕」が有名であった。
つまり本来は福娘の福笹のお届けは先頭の駕で行く、芸妓のつとめだったのだ。
かつて現在の大阪ミナミにあった南地花街では、お正月の十日えびすになると、人気の芸妓や舞妓は代参で贔屓の旦那の数だけ何度もお茶屋と今宮戎神社を何度も駕籠で往復する。旦那はそのために一張羅の着物を彼女たちのために誂えるので、毎回違う衣装で駕籠に乗るので、それは祭りの雰囲気の中、沿道の客の目を楽しませるのには十分過ぎるものであった。
南地には大和屋、富田屋(とんだや)、伊丹幸(いとこう)などの大勢の芸妓が席を置く大店(“おおだな” = 規模の大きな店) のお茶屋があり、基本的には旦那の依頼で芸妓・舞妓の駕籠が都度都度移動していたと思われるが、大店のお茶屋の芸妓たちは全員打ち揃って行列を成して今宮戎神社に向かうようなことをおそらくはしていたのであろう。店ごとに時間差で出発したりの工夫はあっただろう。
それが現在の「宝恵駕行列」の原型イメージなのではないかと思われる。
太平洋戦争の空襲で南地花街は焼け野原になり、衣装も店も多くが失われ、芸妓も少なくなり、終戦後も宝恵駕は大和屋や数少ないお茶屋がで続けていたが、昭和34年(1959年)で中止になる。
その後今宮戎神社からの懇願もあり、ミナミの地域行事としての復活を目指す動きがあって、メディア関係の力も借りて、昭和41年(1966年)ミナミの商店街が中心に宝恵駕保存会 (現:宝恵駕振興会) が結成され、福娘や歌舞伎役者、吉本の芸人、NHK朝ドラの出演者など大阪・関西で時の話題の人を招いて駕に乗せるような、現在の福娘が福笹を届けてまわる「宝恵駕行列」が始まり、今日に至っている。
駕籠は保存会が用意するが、大和屋は独自に自前の一丁駕籠を設け、所属の芸妓を選んで乗せ、行列の「本隊」として「宝恵駕」の伝統をまもり、毎年行列の先頭を飾ってきた。
今も先頭の「本隊」は「南花街」の提灯を掲げ、現在も花街関係者と称される人たちによって、駕籠が担がれ、ともに今宮戎神社に向かう。
大和屋では当日芸妓衆の舞、一丁駕籠に乗る芸妓が一人舞を披露したあと、女将が挨拶をし、鏡開きをしてそのあと女将が芸妓を抱えて駕籠に載せていたらしい。
抱えて載せるのは祇園祭・長刀鉾の神聖なお稚児さんのような扱いではなく、ただ「景気づけの演出」だったらしい。
戻ってきた駕籠に旦那らが乗り込んだりしてゲン担ぎなどを楽しんだそうだ。
平成15年(2003年)大和屋閉店以降、「本隊」駕籠には基本、大和屋出身の芸妓、元芸妓らが乗輿し、もはや近年は「本隊」はかつての「宝恵駕」の歴史を紹介するだけの役割にのみになってしまっていたが、令和8年(2026年)、元大和屋の女将の意向もあって、現在、南地唯一になっているお茶屋「たに川」の現役芸妓が伝統の一丁駕籠に乗せていただく誉れとなった。
再びあるべき古式の「宝恵駕」に立ち戻り、あるべきミナミ南地の伝統文化を伝承していく上でも大いに意義があり、歓迎すべきことだと思う。
駕籠に乗る芸妓、帯同する芸妓らも先達から「宝恵駕」のつとめと歴史を継承することに対して意気に感じている。
また、駕籠に追従する芸妓衆にもたに川の現役芸妓らが参加していて、彼女たちの衣装にも、普段の芸妓の身なりとは違う、伝統の継承がある。
(現在の芸妓の駕籠は当時からの”一丁駕籠”そのものではないかも知れないが概念的に”一丁駕籠”としておく)
ところで文中「宝恵駕」と「宝恵駕籠」をわざわざ書き分けている理由は今宮の十日えびすに関しては「宝恵駕籠」ではなく「宝恵駕」が正しい。
宝恵駕籠自体は江戸時代の頃からの、廓で太夫や遊女の送迎に使われていた「色駕籠」にはじまるという説がある。
今宮戎の「宝恵駕行列」では是非、本隊の芸妓の駕籠にも関心を寄せていただけると嬉しい。
「宝恵駕」は芸妓や南地花街にゆかりあるものが守っていくべきものではあるが、「宝恵駕行列」は市民である皆さんが関心をもって楽しんでいただきつづけることに未来への継続、継承があるわけで。