「今里新地」を検索すると、”場末な色街”として興味本位な情報しか出てこない。
近隣住民としては身近な場所に他の土地の、この街をよく知りもしない人たちのそういう奇異なものを見る目線しか集まらないのはあまり気持ちのよいものではない。
でもその情報の内容もかなり偏見に満ちたものもあるが、否定できないものもあるのもまた事実。
しかし今里新地は当然、当初から”場末な色街”のような場所だったわけではない。
そこで私は誰も書いていない今里新地ができた頃の華やかな当初のすがたを書いておこうと思いたった。
大阪五大新地の一つに数えられた今里新地。
京都の舞妓、芸妓から発展的に花街への関心をもっている人や戦前の日本に関心のある人に応えるような、また近隣の方やこの街を知っている方にとってはこれまでとは少し見方が変わる「今里新地」の検索結果になればよいと思っている。
昭和5(1930)年、いまの近鉄である大軌電車が沿線開発の一貫と都市部拡大が進むことによる大阪市内の遊廓整理の流れで、所有していた現在の今里駅南側の広大な所有地に大阪府の営業認可を得て、子会社の今里土地株式会社によって「芸妓居住指定地」とし、歓楽街の「今里新地」を誕生させる。
今里新地組合編纂の「今里新地十年史」によると「芸妓居住指定地」というのは、体を売るのが仕事である娼妓がいる「遊廓」ではない、芸事を売る芸妓の街とある。
現在、京都の花街は「はなまち」という読み方は娼妓がいるイメージがあるので「かがい」という呼称で統一し、TVやメディアでもそう読ませているが「芸妓居住指定地」がその「かがい」と同じ意味である。
昔の今里新地という場所は今の私たちが見ている祇園や京都の花街のような雰囲気であったと想像できる。
事実、今里新地は当時大阪の売春目的のカフェバーの乱立や私娼の横行に対する風紀を正そうとする機運のなかで誕生している。
(ただ、芸妓が客と交渉をもつことを禁じる規約のようなものはなく、”遊び”目的の「転び」という芸妓もいて、貸座敷の宿泊利用も正式に認められていたことが、やがて戦後のこの街の本質になってしまうのだが…。)
「今里新地十年史」に掲載された地図によると、その広さについては現在地元の方々も周知している、今里駅から少し離れた新今里公園の南側、生野区新今里3丁目区域の一区画だけではなく、駅の目前の「新今里」を冠する町名地域ほぼ全体が「今里新地」で、新今里公園(当時は今里新地公園)も今里新地のど真ん中につくられたもので、芸妓や関係者の自宅や生活する上のお店や施設などもあったとはいえ、とてつもなく大きな花街、歓楽街であったことは間違いないだろう。
街区のかたちが芸妓の舞扇を思わせる”末広がり”で縁起がよいと謳われたようである。
新地が開業された年の、新しい木造の家屋がどんどん建てられていく街の様子を当時の新聞も書いている。
大阪朝日新聞 1930.6.1 (昭和5)
「東大阪の新歓楽地帯今里土地の発展振り – レコード破りの素晴らしい売行き」
大軌沿線片江に下車すればその南方の地域に展開されている情景には誰もが一驚を喫するであろう、即ち木の香新しい粋な作りの家並が揃い、尚処女地をグングン開拓して其処に鑿の音も景気よく建て増され新興の意気の漲っている素晴らしさで、此処許りは不景気知らずの別世界、この新市街こそ東大阪の新歓楽境として己に日夜絃歌の声を絶たない今里新地である。
この地域は今里土地株式会社の経営で所有地は約八万坪、大阪から巽の方角に当ることも喜ばれているがその上大軌上六から僅に四分という交通至便の強味がある。
同地域が指定地として認可されて昨年十二月一部家屋の建築が竣成すると同時に各方面から料理屋、芸妓置屋、飲食店、その他各種営業者は簇出して、その初め僅に十名の芸妓で開業した今里新地はその後数月を経たない現在に於ては既に料亭四十余軒、芸妓置屋十軒、飲食店その他数十軒に及び芸妓数は百名を超ゆるというレコード破りの発展を見日を遂うて殷賑を極めている、この地区には、気の利いた三千坪の公園を配し、数奇を凝らした大浴場も近く完成せんとしている。
世を挙げて不況の声を聞くとき各方面の人気は一斉にこの今里新地に集中して土地建物の希望は日を逐うて顕われ、現在六百余名の賃借又は買受希望者が殺到している盛況であるから、本年中には戸数三百戸、芸妓数二百名を突破することは必然であるとされている。
同地域は目下区劃整理中でその工事を急いでいるから、そのの完成の暁は区劃整然たる美わしい市街を現出すると共に将来市電は同地域の西方に接近して開通の予定であり、又大軌の停留所はこの地域を挟んで東西に新設される計画で交通に於ても又多分に恵まれ、その有望なる将来を如実に物語っている。
同地の地価は一等地で坪百二十円乃至百四十円という廉価であるが至極便利な同社の年賦売買に就て記せば 土地買受代金は即金の外は十ヶ年以内の月賦払で一割以上の内金を納め、土地代の金利は七分である。
右の土地に家屋を建築して土地と共に年賦払とすることが出来る。建築代は二割以上の内金を納め、金利は年一割である。
右の如く十ヶ年間家賃にも足らない月賦金を支払いさえすれば何時の間にかその土地は自分の物となり家主となる楽しみがある、この地域を商業地、住宅地、遊楽地、興行地、公園等に区分して夫々相談に応じている。
詳細は大軌線今里片江停留場下車南、今里土地株式会社(電天一一五四・二三六一)へ照会せられたい。(写真は経営地の一部)
[写真あり 省略]
(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 土地(7-137)から引用)
大軌(現在の近鉄)今里駅は今里新地の玄関となった。
「今里片江」だった駅名が新地開業に併せて、昭和4年に改名されている。
駅は新地の中央でなく東端に位置しているので、反対の新地の西の端、今里筋と交わるところにもう一つ、今里新地の玄関になる駅をつくって東西から新地への旅客誘導の計画があったようだ。
最盛期に2,000人を超える芸妓が今里新地に所属していたと資料にあるので、町中を夜は白塗りで島田髷の芸妓たちが闊歩していたのはもちろん、昼間も町にはそこここで三味線の調べが鳴り響き、舞や音曲、お茶やお花の稽古に行き帰りする和服姿の女性たちが見受けられるような独特な雰囲気のある街であっただろう。
ただ現在より当時は着物姿の一般女性も普通にだっただろうから、いま祇園界隈を歩いて感じる、前時代へのタイムスリップしたような感覚をおぼえる空間では当時はなかっただろう。
新地の街区は料亭やお茶屋、花街関係者、その生活を支える商売をする人たち、一般市民の家族で2,000世帯、2万人ほどの人口に達したそうである。
よく大阪の花街である南地も最盛期に2,000人ほどの芸妓が居て祇園より遥かに多かったと関係者が話すのを聞くが、おそらくは同時期に今里新地は同規模かそれ以上の規模を誇っていたのではないかと思われる。
その昔は大阪市内から夜の暗い田舎道を連なってハイヤーがこうこうとヘッドライトで照らしながら闇に光って浮かぶ今里の不夜城を目指して来たのだそうである。
今里新地が開設された頃は、その周辺はまだ田んぼが果てなく続くような平坦な何にもないところで、新地が現在の「今里」の基盤になっていく。
現在「今里」という街は近鉄奈良線の高架を境に北は東成区、南は生野区になっていて、今里新地は生野区がわにあり、東成区がわは今里新地とは無縁の街づくりがなされてきたように、区役所で配布される資料や地元の学校がそんなふうに教えているので、今の地域の人たちはそう思っているかもしれないが、新今里の真北に隣接する東成区大今里南1~3丁目には2階の窓が丸窓だったり、窓の欄干に特異な意匠があるような、もとは花街の建物だったのでなはいか思わせる古い家屋が今はわずかではあるが見受けられる。
そもそも生野区は昭和18年に東成区から分区しているので、新地の華やかし頃に地域の市民は同じ街だと思っていただろう。
じつは私の生家だった東成区内の建物も今は無いが、もとは盆屋(ぼんや、待合ともいう)の建物だったころを最近知った。(断っておくが私と私の家族はその盆屋が家業だったのではない。住居として建物を買い受けただけである。)
盆屋は花街や遊郭といわれる場所にあるものだが、詳しいことはここでは控える。ご興味あられるかたはご自分で調べていただきたい。
またこの地域には吉本や松竹の芸人や落語家が居住したことも知られている。
芸事で食べている人たちを好意的に受け入れる風土は今里新地に連なる場所ゆえだったのではないか。おそらくは新地からお呼びがかかって座敷に出向いていたであろうことも想像に難くない。
今里新地の芸妓らも落語家たちの下宿であった「楽語荘」があった場所から歩いてすぐの七福橋の渡り初め式に花を添えている。
現在も、すでに下町になった新今里の界隈には町にはどうも似つかわしくないような、大きな和菓子屋さんや昔商売をされていただろう着物の洗濯や着物に関する商いの看板であったり、現存する料亭がある。
公園の北側にある「玉家駐車場」の「玉家」は今里新地の組合の最初の総会が行われた大きなお茶屋の跡である。
町工場やマンションが多いのはもともとお茶屋や料亭などの大きな建物の跡地があったからだ。
いまも、ただ駅前界隈というには広範囲に店舗も多い。(現在は廃業しているものも含めて)
松福堂には「ふるべの鈴」という、おおぶりなお菓子がある。
お座敷遊びをした客にお茶屋がおもたせ(土産)にしたものだ。「いしきりさん(石切劔箭神社)」の拝殿の鈴をイメージしたものらしい。
往時の大軌電車の大阪府内の2大名所は今里新地といしきりさんだった。いしきりさん詣りの帰路の夜、今里新地に立ち寄る客も多かったようだ。
たこ焼きの元祖として知られている会津屋はこの今里新地で創業している。
東京で料理の修行を終えた会津坂下町出身の遠藤留吉氏は昭和8年に「会津屋」の屋号で、醤油を下味にした水溶き小麦粉にネギやこんにゃくや牛すじ肉などを入れて焼く「ラヂオ焼き」の屋台を営んでいたが、新地の客の明石のタコが入った「玉子焼き」の話を聞いて具をタコに変えて、「たこ焼き」と名付けて売り始めた。
じつはたこ焼き発祥の地は今里新地なのである。
ちなみに小説家の東野圭吾氏はこの界隈で生まれ育っておられ、「浪花少年探偵団」に出てくる「ポンポン」という洋菓子店のモデルは「洋菓子ケンテル」である。
ケンテルがこの地に開業したのは昭和42(1967)年のことであるが、当時もおそらく街には芸妓の姿はちらほらはあったのではないかと思われる。
今里新地演舞場は今里新地公園(現 新今里公園)の真南、現在の大阪信用金庫今里支店の場所にあり、現在も京都の花街でも行われているような、踊りや三味線などの稽古の成果を披露する「温習会」が毎年6月に催されていた。
しかしながら今里新地では踊りの舞台よりも公園での屋外イベントのほうが一般市民にも注目され、精力的に行われていたようだ。
新今里公園は現在もたくさんのサクラの木があり、春は地元ではなかなかの花見の名所なのだが、それもそのはずで往時はこの場所で「今里新地の夜桜」と銘打った、芸妓総出での一大イベントが毎年行われ、大軌電車の駅で告知のポスターが貼り出されたり、パンフレットも配布され大きな集客があったようだ。
その目的で植樹された桜の名残である。
この公園の南半分は中学校の校庭くらいの広さのグラウンドになっていて、近隣の市民が思い思いに球技や運動を楽しんでいるが、この場所も公園開園時からも芸妓たちの健康のための運動場だったようで、2,000人の芸妓らを一同に集めてラジオ体操や贔屓客を観客に招いた運動会なども行われていた。
また毎年夏には大きな舞台を組んで、その上に建てた櫓の周りを芸妓らが輪になって踊り、ビヤガーデンなどもあった「盆踊り」は夏の名物行事だったようで、黒山の人だかりの来場があった光景の写真が十年史に掲載されている。
現在も公園の東端にある末廣稲荷神社は「今里稲荷社」として、今里新地開設の昭和5年に、新地の繁栄を祈願して今里土地株式会社によって伏見稲荷神社から勧請された小祠である。いつから末廣の名前になったかは調べてはいないが、先述のように、街区のかたちに由来しているのではないだろうか。芸妓の舞扇にちなんだか、いずれにしても、花街らしい名前である。
十年史の小さな写真から推測するに、おそらく現在の鳥居の正面に連なる公園の通路部分も参道があったのではないかと思われ、鳥居ももう少し社殿寄りに現在のものより大きなものがあったようだ。
現在は東側ににふくれたアンバランスで植樹も珍妙な境内だが、もともとはやはり左右対称でもう少し大きく、神社らしい佇まいだったようで、毎年稲荷祭や大胡麻神事なども関係者らにより盛大に行われ、平素も参詣者の絶えない神社だったらしい。
花街にお稲荷さんはつきものであるが、芸妓たちがめいめいに夜は白塗りで仕事の前に、昼間は稽古の行き帰りに参詣し、おしろいの匂いのする神社であったかもしれない。
いまでこそ近隣の市民のために自治体が管理する公園であるがつくられた意図は他の公園とは全く違っていて、新地のど真ん中に位置し南向かいの演舞場とともに今里新地のランドマークとしての位置づけであったように想像される。
南地にはかつて舞妓がいたが今里新地にはいなかったようだ。
妓丁(ぎてい、芸妓の丁稚(でっち)みたいな意味か)という芸妓見習いがいて、その管理が雇用先なのか組合なのかの議論があったり、妓丁がストライキもしたようなので、舞妓のような客前に特別な容姿で出ていた写真などは見当たらないがお座敷の仕事に欠かせない役割もしていたように思われる。
この巨大な花街だった今里新地であるが、開設からまもなく日本は戦争に突入し、新地の芸妓たちは軍隊慰問や報国活動、勤労奉仕に追われていくことになる。
そして開設から15年の昭和20年6月15日の空襲で今里新地の北半分は焼け野原になってしまい、北半分はほとんど町工場や宅地化し、戦火を免れた生野区新今里3丁目の区域だけが「今里新地」として営業され、現在に至る。
戦後、各地の花街はバーやキャバレーなど、サラリーマンらに向けた風俗営業への業態の変容がすすむとともに、「今里新地」はGHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間は半ば公認で売春が行われる「赤線(あかせん)地区」になり、その後も、法に触れない理屈で営業を続ける店が残り、平成には働き手に外国人女性が見られるようになり、
そして、やがて今里新地の現在周知されている色街のイメージの街区につながっていく…
華やかな芸妓の街としての今里新地は大玉の打ち上げ花火のように、大きく派手にあざやかに輝いて、すっと素早く消えて終わってしまったと言えよう。
ここまで読んでくださった人は他のネットの情報とは違う今里新地の印象をもっていただけただろうか。
私自身も子どもの頃は「今里新地」に行ってはいけないと親に言われていた。
それが「子供が行くと危ない場所」という意味ではなく「子供が来る場所ではない」という意味だったことに気づくのはそこそこ大人になってからだった。
京都の舞妓に魅かれて、花街文化に触れ、花街の歴史に触れると、身を売って稼ぐ娼妓がいないのが「花街(かがい)」と言われても、時代をさかのぼれば「遊廓(遊郭)」と区別のしようがないものであったことも、時代を下れば現在の風俗街につながっていくこともまた否定しようがないこともわかってしまう。
それが娘が憧れる舞妓にさせたがらない家族の基本的な花街の印象のひとつになっていることは否めない。
この街の世間の印象を否定するまではできないが、しかし、花街文化を肯定的に興味や関心をもってくださる方々には魅力的な、祇園と同じような風景がかつてここにあった事実に、好意的な目をこの界隈に向けてくれる人、少し見直してもらえる人もでてくることを期待している。
近隣やこの地を知っている方々には街への思いや界隈を歩く思いが少し変わればうれしく思う。
しかし、この私の投稿を見てはじめて今里新地を知って期待を膨らませてこの地に足を運んでもらうことにはさすがに躊躇がある。美味しいお店もあるが観光気分でうろつく街ではないので理解しておいていただきたい。
風俗の店が集まる場所は風俗街以外の何ものでもないわけだし。
今回は、今里新地の往時をしのばせる、一番参考にした「今里新地十年史」という本からの写真の引用などは権利の関係でできなかった。
国立国会図書館のデジタルライブラリーから「今里新地十年史」の現物の全ページを見ることができるので、もっと知りたい、関心を深めたい方はご覧いただきたい。