下がり藤、五七桐、葵の御紋

我が家は浄土真宗本願寺派、京都でいう「お西さん」の門徒なのだが、親戚も多い、職場もある奈良に通っていて、春日大社の「下がり藤」社紋が、浄土真宗の「下がり藤」の宗紋と似ているのは何かしら縁があるのか気になっていて、法事の機会にお越しになったお坊さんにうかがったもののご存じなかったので、さすがに自分で調べてみた。

それによると、浄土真宗本願寺派の「下がり藤」については、明治31年、本願寺第22代宗主・鏡如上人(大谷光瑞師)が九條籌子(かずこ)さんとご結婚され、明治36年5月、鏡如上人の伝灯報告法要の時に九條家の「下り藤」を宗紋として採用されたのが始まりだそうで、「九條家」というのは、摂関家の一、つまり藤原氏の末裔。
またそもそも親鸞上人ご自身も藤原氏につながる日野家の出身なので、藤原氏の氏祖神の春日大社の「下がり藤」を使うのは何の不思議も問題もないのである。

ちなみに九條家の菩提寺である東福寺も浄土真宗ではないが九條家の「下がり藤」を寺紋としている。

話は変わるけれど、日本政府にも紋章があって「五七桐(ごしちのきり)」を採用している。
政府、首相の記者会見のときの演壇や、東京や京都の迎賓館などでも見かけるものだ。

「五七桐」といえば思い出すのは太閤秀吉である。

先頃、京都の醍醐寺にお参りしたときに、伏見城から移築したとされる門に大きな金塗りの「五七桐」が付いていたので、寺紋にもなっている「五七桐」について、職員のかたにうかがってみると、確かに醍醐寺は秀吉の厚い支援をうけてきたが、「五七桐」はそもそもは皇室をあらわす菊紋に次ぐ”副紋”で、とくに皇室に対して功績のあったものに下賜されるもので、醍醐寺の他にも奈良や京都の寺社の紋章になっているところもあるのだそうだ。

その関係から、一般市民は「五七桐」ではなく「五三桐」を使用するような習わしになっている。
(今更だが、五七桐とは真ん中の花が7、両端が5の花という絵柄、五三は真ん中が5、両端が3。また法務省などは「五三桐」を採用している。)

秀吉もしかり、かつて社寺は日本の政治に大きく関与していたこともあり、「五七桐」は政治を司る立ち位置という意味があるようだ。

ちなみに浄土真宗本願寺派も一時期「五七桐」を宗紋としていた時期があるようだ。

京都の上賀茂神社に徳川家の「三つ葉葵」の紋がついた駕籠(かご)が現在にも保存されていて見ることができる。
上賀茂、下鴨の両神社の社紋は「ふたば葵」であるが、徳川家の「三つ葉葵」とはじつは無縁ではない。
その昔、遠江に下った賀茂氏と徳川家のもとになる松平家は親しい関係で、当地の賀茂神社の氏子であったがゆえに「ふたば葵」から「三つ葉葵」の家紋を考案したとされている。
「三つ葉葵」は本多家から譲り受けたという説もあるが、賀茂氏との関係が浅からずであったことには違わないようだ。
NHK大河ドラマ「真田丸」で家康が「ふたば葵」を散らした裃を纏って登場しているシーンがあった。
どうやら、この史実にならったようで、なかなかと感心した。